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 独立棟持柱建物は祭殿か?
   〜 近江の独立棟持柱建物から考えてみる 〜
ホームページ「弥生近江の大型建物」では、伊勢遺跡や下鈎遺跡で見つかった独立棟持柱建物は「祭殿」であると記述してきました。そのように教えられ、自分で調べて確信しているのですが、整理のためまとめました。
祭殿論の簡単な経緯を同ホームページの「独立棟持柱建物の用途 神殿か? 祭殿か?」に書いていますが、「祭殿と呼ぶ根拠」を近江の独立棟持柱建物を対象にして掘り下げて検討しました。
建物の構造だけではなく、集落内での建物の位置、区画の有無、付帯設備との関係、祭祀用出土物などを検討要素としています。

結論としては;
@近江の独立棟持柱建物は「祭祀を主眼とした施設(祭殿)」である。
A形態・規模は多様で、出土物などから祭祀の内容もある程度推測できる
Bこれまで集落構造の中での建物の位置に意味づけて検討されてきたが、伊勢遺跡や下鈎遺跡は発掘された広大な
 範囲全体が祭祀域であり、従前の検討範囲を超えている。
C大型建物が密に建ち並ぶ中に祭殿がある下之郷遺跡も、類例のないもので検討課題として残る。
独立棟持柱建物の用途 神殿か? 祭殿か? (上記ホームページの再掲)
大型建物の柱穴が発掘されたとき、古代建築の専門家が、土器や銅鐸、鏡などに描かれた建物の図を参考にして、建物の復元案を作成します。でも、複数の専門家が同じ復元案を出すとは限りません。
独立棟持柱建物に関しては、建築史の専門家である宮本長二郎さんが切妻方式で破風を伸ばした神社と思える復元案を提示し、広く用いられています。
独立棟持柱建物

独立棟持柱建物(イラスト:中井純子)

同氏は伊勢神宮の神宮本殿形式の成立過程を縄文時代〜弥生時代の独立棟持柱建物に注目して研究しています。弥生時代、高床式建物は米倉として普及するが、独立棟持柱は祭殿建築を象徴するものとして、これらの建物を「祭殿」と見なせるとし、異論があるものの定着しているようです。
国立歴史民俗博物館の廣瀬和雄さんがこの建物は「神殿である」という説を提示し、独立棟持柱建物の特異性が認識されるようになったようです。
これらの説に対し、歴史学者も含め、「神の概念」に対する批判も出されています。また、祭場としての性格を認めながらも、歴史的な根拠・起源を求める意見があります。
このホームページでは守山市教育委員会や指導、助言を頂いている考古学者の考え方に準拠して「祭殿」という使い方をしています。
祭殿論議の経緯

初期の検討経緯

近江の独立棟持柱建物の性格を論ずる前に、「祭殿・神殿」論議の経緯をまとめてみます。
宮本さんが縄文時代、弥生時代に認められる独立棟持柱建物に注目して、建物の構造だけではなく集落内での配置、弥生土器や銅鐸に多く描かれるなどの特殊性から単なる米蔵ではなく、後の時代の神殿につながる特殊な建物であると指摘したのが「祭殿論」のきっかけのようです。
これに対しいろいろな反論や批判が出たようですが、宮本さんは1999年には伊勢神宮の広報誌「瑞垣」に「神宮本殿形式の成立」というタイトルで「伊勢神宮の神宮本殿形式の成立過程」を掲載しています。
縄文時代の掘立柱建物に祭殿建築の曙を見い出し、弥生時代には独立棟持柱を持つ高床式祭殿が近畿地方を中心にして周辺に広がった、としています。さらに当時、話題となった大阪の池上曾根遺跡や近江の伊勢遺跡の独立棟持柱建物を取り上げて祭場のあり方を論じ、「独立棟持柱は祭殿建築を象徴する役割のみを担う」と断じています。
さらに、伊勢遺跡で見られる2棟の建物の棟木を直線上に揃える「二棟直列配列」に注目し、これが古墳時代の祭殿に引き継がれ、大阪の住吉大社や伊勢神宮(遷都ではあるが)につながるものと指摘しています。
同時期、国立歴史民俗博物館の廣瀬和雄さんが独立棟持柱建物は「神殿である」という説を提示し、この建物の特異性がより認識されるようになったようです。
その一方、祭殿と神殿の定義や弥生時代に「神の概念」があったのか、神殿になぜ独立棟持柱がありそれが「聖性」を示すのか、建築学的に棟木を支える構造材の意味しか持たないとか、あるいは宗教論にまで及ぶ反論・批判が出てきました。
しかし、このような建築史に関わるのは専ら宮本さんお一人ということもあり、その後も独立棟持柱建物=祭殿という見方が続いています。

設楽博巳さんの検討

これらの論議は、池上曾根遺跡や伊勢遺跡などの特に目立つ遺跡について取り上げられているようですが、2009年設楽博巳さん(現東大教授)が、多数の独立棟持柱建物の事例を整理・分析した結果を「独立棟持柱建物と祖霊祭祀」として発表しました。
宮本さんの論文発表時よりも独立棟持柱建物の発見例が増えており、53遺跡の81棟の独立棟持柱建物を対象として、建物の構造だけではなく、集落居住域や墓域との位置関係、付随する建物との関係、地域性、時代変化、祖霊祭祀の形などを分析しています。
結論としては、
・独立棟持柱建物の一つの機能として祖霊祭祀がある。
・二棟並列(宮本さんの二棟直列配列)の例もあるので一つの機能に限定できるのか検討が必要。
・中国の例では祖先の霊が宿る位牌のようなものが置かれており、独立棟持柱建物に何が祀られたのか?
 土器に描かれた建物と銅鐸(?)の絵から考えると、通常銅鐸は建物に安置され祭儀の時に取り出したという考え方もある。
・また、独立棟持柱建物が単独であるのではなく、別の種類の掘立柱建物を伴う例が多く、祖先霊を 祭る以外にも、
 天・地霊を祀っていたかもしれない。
祭殿を肯定しつつもいくつかの検討課題を挙げています。

山下優介さんの検討

2015年筑波大学の山下優介さんが、設楽さんの論文をベースにして、67遺跡119棟の独立棟持柱建物のデータベースを作り、集落構造に加え、建物構造(梁行、桁行寸法と比率)や建物周囲の柵列、溝の有無などを要素として取り上げ検討しています。
独立棟持柱建物の性格だけではなく、弥生時代から古墳時代への役割変化を論じています。祭殿論というよりは、多くの事例を分析し、独立棟持柱建物の性質から弥生・古墳時代の社会構造を推察することを目的としています。
結論としては、
・独立棟持柱建物は農耕儀礼の祭祀の場としての機能を有していた。
・弥生時代、集落間で建物の在り方が多様であり、穀藏としての機能も持ち合わせている。
・その他、共同作業の施設や祖霊を祭る施設としても利用されたであろう。
   (古墳時代の考察は省きます。)
設楽さん@と山下さんAの多数の独立棟持柱建物の分析・検討により、それまで代表的な事例を中心に議論され個別事例の解釈から、広がりを見せたと言えます。
近江の独立棟持柱建物の考察
ホームページ「弥生近江の大型建物」は、上記@Aのデータを基にして、その後に発見された独立棟持柱建物のデータを追加して分析しています。
山下さんが述べているように、地域により、時代により建物は多様性を示しており、個別建物自体のデータに加え周辺状況、出土物、付随建物など、全事例のデータは把握しかねます。
近江の建物については、基となる発掘調査報告書が入手でき、発掘担当者の話も聞くことができたので
近江の独立棟持柱建物に関して掘り下げて分析・検討してみます。

これまでの検討の限界

独立棟持柱建物が祭殿かどうかの検討に加え、どのような祭祀であったのか? また、祭祀以外の利用はどうであったのか? 周辺の付随建物との役割分担、など、課題はいくつもあります。 また、伊勢遺跡の建物配置が正しく理解されていないことも感じます。 これまでの諸氏による検討で限界を感じていることは;
建物の円周上配列
伊勢遺跡の祭殿の長軸が円周上に乗ることが考慮されていない。
宮本さんが、伊勢遺跡の建物の二棟直列配置(並列と呼ぶ人もいる)と書いたことで、宮本論文をベースに検討する人は伊勢神宮のような二棟の真横配置を想像していることでしょう。
実際には2棟の建物の長軸が約16度ズレて円弧を描いており、他の建物も合わせるとほぼ円周上に乗 り中心に向いていることが考慮されていない。建物の性格を考える上で重要なファクタである。
心柱の有無
伊勢遺跡の「心柱」が全く考慮されていない。神聖性を示すものの考えられ、伊勢神宮の「心御柱」とのつながりを示唆する重要な要素である。
円と四角の組み合わせ
伊勢遺跡の中心部の方形区画の建物とそれを取り巻く円周配列の建物の組み合わせ、円と四角の組み合わせの意味が考察されていない。
建物の円周上配列
伊勢遺跡の円周上配列
伊勢遺跡の建物の円周上配列

心柱

伊勢遺跡の心柱

伊勢遺跡の心柱(写真:守山市教育委員会)
円と四角の組み合わせ
建物は2倍サイズで表示
伊勢遺跡の建物配列
伊勢遺跡の建物配列
(守山市発掘調査報告書より作成)
出土物の種類と量
建物跡や周辺、建物の溝からの出土物の有無、種類、数量などが考慮されていない。祭殿として考えるとき、出土物はどのような祭祀であったか推測するために不可欠。
柱の太さ
柱の太さは建物の壮麗さを顕示するが、検討要素に入っていない(実際には難しいが・・)
頻繁な建替え
下之郷遺跡は独立棟持柱建物と掘立柱建物が同じ場所に5棟が建替えられており、周辺建物に比べ頻度が高い。このような頻繁な建替えの状況は池上曽根遺跡でも見られている。
この様相を、首長が変わるたびに建替えたとする説があるが、はたして祭殿なのか首長の居館か?
下之郷遺跡や池上曾根遺跡の一連の建物が祭祀用だったとすると、独立棟持柱が必ずしも祭殿の象徴とはいえず独立棟持柱のない祭殿もあったことになる。
独立棟持柱は単に棟木を支える構造材だという説もあるが、小型の独立棟持柱建物では説明が付かない。

独立棟持柱建物の分類

設楽さん、山下さんは集落の中における独立棟持柱建物の性格を分類し、性格分けをしています。
両氏の分類の仕方はほとんど同じで、ここでもそれに準じて分類します。
集落内での独立棟持柱建物のあり方(山下さんの分類)
T類:居住域の中にあり竪穴住居と混在している
U類:他の掘立柱建物とともに、あるいは単独で存在(竪穴住居から独立)
A類:区画施設(柵や溝)を持たない
B類:溝あるいは濠を伴う
C類:柵列を伴う
D類:溝あるいは濠に加え柵列を伴う
V類:墓域あるいは墓に存在している
設楽さんは、U類、その中でもB類以降は非日常の空間である可能性が高い、としています。

出土した祭祀物のランク分け

建物跡や周辺の溝、河川からの出土品の種類によって祭祀が行われていたのかどうか、祭祀が行われていたとして、どのようなレベルの祭祀なのかの推定が付きます。
近江に限定して祭祀物のランクを付けました。ランク分けの仕方は、樋上昇さんの木製威儀具から見た弥生集落の階層性モデルのランク分けを参考にしました。
祭祀物のランク分け
近江の独立棟持柱建物の分析
発掘調査報告書が得られている8つの遺跡について集落の様子と独立棟持柱建物の性格、祭祀の様子などを分析してみます。

伊勢遺跡(弥生時代後期の中頃〜後期末)

伊勢遺跡の建物と周辺環境
中央の方形区画の柵に囲われた建物群があり、少し離れて高層の楼閣が建っています。
楼閣を中心とする半径約100mの円周上に等間隔に独立棟持柱建物が並んでいます。
これらの建物は、円弧上の溝や大溝、自然流路で区切られています。
出土遺物はほとんど見つかっていません。
伊勢遺跡全景
建物と周辺環境の分析
集落構成と区画 U-D類  全域が祭祀場
 中央の方形区画:柵列
 周囲の円周配列:溝、自然流路
外周の溝内部はもちろん、溝外付近にも竪穴住居なし
同じく、墓域なし
建物 方形区画
 総柱建物 1棟
 平地式近接棟持柱建物 1棟
 高床式近接棟持柱建物 1棟
 小型独立棟持柱建物 1棟
 二重柱構造総柱建物(楼観) 1棟
円周上配列
 独立棟持柱建物 6棟
 屋内棟持柱建物 1棟
方形区画の建物は正北向き
楼観は方形区画の近傍
魏志倭人伝の「王の居所」の要件を満たす建物群
1棟を除き全て大型建物
円周上配列の建物は中心に向き、等間隔で建物の長軸が約16度をなす
屋内棟持柱建物のみ、位置が少しずれて、方位も合わない
心柱 独立棟持柱建物、近接棟持柱建物には建物中央に心柱がある 柱は細く「屋内棟持柱」の可能性は低い
柱の太さ 建物規模に対し、必要以上の太さの柱
付帯設備 方形区画の総柱建物(主殿)の横に脇殿や倉庫が並ぶ
外周近傍に導水施設がある
出土物
ランク:祭祀X
建物、建物周辺:遺物なし
溝、自然流路:遺物なし
この区域には土器などの生活痕なし

祭祀の形(妄想)
伊勢遺跡では、方形区画で行われる祭祀と、円周上の祭殿で行われる2つの祭祀の形があったと考えられます。
・方形区画の建物
一番大きな総柱建物の主殿を軸に、副屋(脇殿)、祭殿が並んでいます。  
ここは、公的なのオウの居所 兼 儀式会場で、重要な祭祀を行っていました。
遺物が全くない⇒すなわち世俗とは関しない聖なる祀り、「クニ造り」の祀りだったのでしょう。
祭祀の主催者は、銅鐸祭祀圏の緩やかな連邦の中核となる伊勢遺跡の「オウ」です。
クニの威厳を誇示するために高層の楼閣を建てました(三内丸山遺跡、吉野ケ里遺跡とおなじ)。
・円周上の建物(祭殿)
祭殿は銅鐸祭祀圏のクニグニのオウが管轄する銅鐸の格納場所であり祭祀場でした。
祭殿の規格は決めたものの、テラス(SB12)を付けたオウがいたり、異端のオウは屋内棟持柱建物を選び、位置も少しずらして中心を向かずによそ見をした(SB-6)オウもいました。
これらの祭殿は、設楽さんが可能性として示唆している銅鐸の格納場所と考えます。
・伊勢遺跡は、山下さんが提唱する「米蔵」兼「祭殿」とは相容れません。
 宮本さん、設楽さんが唱える二棟一対の構成ではないと考えます。

下之郷遺跡(弥生時代中期中頃〜中期後半)

下之郷遺跡の建物と周辺環境
3重の環濠がぐるりと建物群を取り囲み、その内部に竪穴住居はなく、40uクラスの大型の掘立柱建物と円形の壁立建物が立ち並んでいました。環濠内は未発掘の部分が多く、見つかった建物の密度が高いのが特徴です。円形、方形の壁立建物が多く見られるのも特徴です。
環濠や建物周辺から膨大な量の遺物が見つかっています。
下之郷遺跡全景

建物と周辺環境の分析
集落構成と区画 U-B類
 建物全体:環濠
 個別建物:溝付のものあり
環濠内部はもちろん、環濠外にも竪穴住居なし
同じく、墓域なし
建物 独立棟持柱建物2棟(建替えもカウント)
 同一か所で掘立柱建物 3棟(建替え)
上を取り巻く 掘立柱建物 6棟
 円形、方形壁立建物 各1棟
異なる方位の掘立柱建物 11棟
円形壁立建物  12棟
異なる方位の方形壁立建物 2棟
建物の方位を統一している
正北向きの一群と15度振った方位の一群に分かれる
掘立柱建物は推定も含んで40u前後の大型建物ばかり

円形壁立建物が出るのは西日本の拠点集落のみ
心柱 なし
柱の太さ 建物規模に対し相応の柱 伊勢伊勢に比べると細い
付帯設備 独立棟持柱建物(祭殿)を取り囲む掘立柱建物群は、脇殿・副屋の機能を持つ?
出土物
ランク:祭祀A
建物周辺、井戸、環濠から豊富な遺物
一般的な弥生遺跡に比べ、祭祀関連、武器関連、有機物の多様な遺物が出ている
玉作関連(原材料、工具)も出土するが、玉製品は少量
土器、石器、木器、有機物などの生活痕があふれている
特筆すべき遺物:
 木偶、朱塗り楯、鳥形木製品、銅剣
 漆塗り弓、南方のココヤシ祭具

祭祀の形(妄想)
下之郷遺跡は一般的な居住域ではなく特別な人々が住むエリアで、広域の拠点集落として機能していたと考えます。中央の祭殿で拠点集落の?栄や安寧を願った祭祀をしていたのでしょう。 ・近江では一番早く独立棟持柱建物を建てており、広域の拠点集落でした。
・人々は大型の掘立柱建物と円形壁立建物に住んでいた?
一般的な竪穴住居がなく、大型の掘立柱建物と円形壁立建物ばかり、それでいて生々しい生活痕の
ある遺物が多数出ています。低い湿地帯では掘立柱建物に住んでいたケース(下長遺跡など)もあるものの、微高地の下之郷遺跡で人々が掘立柱建物に住んでいたとしか考えられません。
・どんな人が住んでいた?
円形壁立建物は中国から朝鮮半島に起源を持っており、南方に起源をもつ独立棟持柱建物や、ココヤシ祭器が出土していることから、国際色豊かな渡来人もここにいたと考えます。
・遺跡は厳重に警護されており、重要物資があり、重要人物がここにいたと想像できます。
以上を考えあわせると、それまで野洲川下流域に住んでいた在地の首長たちが共同して巨大な集落を造り、内部に環濠に囲まれた交易センター、物流ネットワークのセンターを設けたのではないかと思われます。
そこには渡来人が集まってくるネットワーク拠点のように思えてきます。
・独立棟持柱建物は首長が集落の繁栄と安全を願う祭事を執り行い、また、儀式を行う共同作業所だったのでしょう。

下鈎遺跡(弥生時代後期中頃〜後期末)

下鈎遺跡の建物と周辺環境
祭祀域は南北の2か所に分かれており、それぞれに大型の独立棟持柱建物が建っていました。
遺跡の内部に大きな川が流れているのが特徴で、水運の拠点であったようです。
多種類の遺物が出ていますが、青銅製品、水銀朱などの工業製品関係の遺物が出るのが特徴です。
下鈎遺跡全景
建物と周辺環境の分析
集落構成と区画 U-D類 北の祭祀域
U-B、D 南の祭祀域
  いずれも柵列と自然流路
祭祀域には竪穴住居はなし
南北祭祀域の間に居住域がある
墓域なし
建物 北の祭祀域
 大型独立棟持柱建物(祭殿) 1棟
 小型独立棟持柱建物 1棟
南の祭祀域
 大型独立棟持柱建物(祭殿) 2棟
 平地式壁立建物  1棟
いずれも川のそばに建てられている
心柱 なし 伊勢遺跡とほぼ同サイズの独立棟持柱建物であるが、心柱はない
柱の太さ 建物規模に対し、必要以上の太さの柱
付帯設備 南の祭祀域の2棟の独立棟持柱建物の間東祭殿付近に「水の祭祀場」と「水場遺構」がある
祭祀関連の掘立柱建物が複数棟ある
近傍に太い柱の鳥居状の遺構あり
出土物
ランク:祭祀A
  〜祭祀B
3棟の大型祭殿で大きく異なる
北の祭祀場近辺と川:
 少数ながら重要な遺物(鉄製品、琴)
南の祭祀場近辺と川:
 西祭殿:遺物少ない
 東祭殿:多種多量の貴重な遺物、
      銅製品、ガラス玉、石杵
北祭祀域:土器の出土は少ないが
      手焙型土器
南の祭祀域
 西祭殿:土器も乏しい
 東祭殿:多量の土器(土器祭祀の痕跡)

祭祀の形(妄想)
出土物から考えて、下鈎遺跡では人々の生活に密接に関係する、工業や流通の祭祀を行っていたと考えます。その中でも、北の祭祀と南の祭祀域では異なる祭祀であったようです(出土物から)。
・北の祭祀域
ここでの出土物は数点しか出ていないものの、鉄製品2点、やまと琴、手焙り型土器などの貴重で他では見られない遺物が出ており、建物跡から銅残滓が見つかっていて青銅生産域があったと推定 されます。発掘できた範囲が狭く片鱗しか見えていないのが残念です。
ここの祭殿では、当時の最先端技術である青銅器生産の祭祀をしていたと思われます。
・南の祭祀域
下鈎遺跡の機能は、上述した青銅器生産のほか水銀朱の生産を行っていたようです。
もう一つの重要な機能は、河川水運の拠点であり、びわ湖水運が川をさかのぼって陸運に積み替える 基地であったと推定しています。
2棟の祭殿では、水運に関する祭祀と水の祭祀を行っていたようです。
西祭殿付近は遺物が少ないのですが、東祭殿の川岸や川の中から膨大な数の土器(整然と並べらえた基壇あり)、水を採集する水場遺構もあります。祭祀で使われた土器以外のものとして、多数の青銅小物、鋳型、ガラス玉、水銀朱を作るための石杵などが出ています。
西祭殿は聖なる祀りを行い、東祭殿では多くの人々が集う祭祀をしていたのでしょう
・下鈎遺跡は、山下さんが提唱する「米蔵」兼「祭殿」とは相容れません。

下長遺跡 (弥生時代後期末〜古墳時代初頭)

下長遺跡の建物と周辺環境
自然堤防帯の下の低地に営まれた集落で、居住域、祭祀域、首長の居館域、墓域がはっきりと分かれている典型的な集落です。
集落の中央を大きな川が流れており、出土遺物からここが河川水運とびわ湖水運の拠点であったと推定されます。前述の下鈎遺跡の水運が川の流れの変化で衰退したのち、下鈎遺跡が水運の拠点となりました。卑弥呼政権との密なつながりがうかがえる「権威を象徴する遺物」が多く出ています。
下長遺跡全景
建物と周辺環境の分析
集落構成と区画 U-B類
河川に面している、反対側は不明
祭祀域とは離れたところに居住域、墓域がある、水の祀りの場もある
建物 弥生時代後期
 大型独立棟持柱建物 1棟
古墳時代初頭(庄内期)
 中型独立棟持柱建物 2棟(建替え)
 小型掘立柱建物 1棟
弥生時代、古墳時代共にほぼ同じ場所にあり、川に面している
心柱 弥生時代:心柱なし
古墳時代:心柱あり
伊勢遺跡が衰退した後には、心柱があり、伊勢遺跡を引き継ぐ?
柱の太さ 弥生時代:太い柱
古墳時代:細い角柱

鉄器で加工した痕跡
付帯設備 弥生時代:なし
古墳時代:小型倉庫
出土物
ランク:祭祀A
建物周辺:遺物なし
川、川周辺:貴重な品、威儀具など多数
 玉、鏡、埴輪、やまと琴、舟形木製品
水運用の準構造船が出土
銅鐸の飾り耳
卑弥呼政権との関係を示す木製威儀具

祭祀の形(妄想)
祭殿は上流側の川に面しており、別に水の祭りの場が川下にあって豪族の居館域はその中間になります。
川沿いのいたるところで祭祀具が出ており、水運の安全を祈願する祭祀を行っていたと推定されます。
水の祭祀を行っていたと考えられる「まつりの場」、井泉遺構があります。
伊勢遺跡が衰退した後の古墳初頭の独立棟持柱建物には心柱があるのが特徴です。伊勢遺跡の聖なる祭祀を引き継いだような感じです。

針江川北遺跡(弥生時代後期)

針江川北遺跡の建物と周辺環境
この遺跡は弥生時代後期から古墳時代前期にかけての集落遺跡です。道路建設により発見されたもので、細長い遺構となっています。長大な調査区からは棚列および棟持柱建物を含む掘立柱建物群を中心に、竪穴住居域、環濠、墓域が同心円状に廃止されている環状の集落形態が推定されています。
針江川北遺跡全景
建物と周辺環境の分析
集落構成と区画 U-C類
居住域と居住域のあいだ、集落の中央部にあり柵が設けられている
濠のそばに別の祭祀域あり(祭祀土器が多く水辺の祭り?)
居住域、墓域から独立
建物 弥生時代後期
 中型独立棟持柱建物 1棟
心柱 心柱なし
柱の太さ 規模に見合った細い柱
付帯設備 掘立柱建物(副屋)、柵列
出土物
ランク:祭祀B
建物周辺:遺物なし
祭祀域に多くの祭祀用土器
特殊な遺物;
 朱塗り土器、手焙型土器

祭祀の形(妄想)
2か所に祭場があり、中央部の祭場に独立棟持柱建物があります。もう1か所は竪穴建物と掘立柱状建物で川のすぐそばにあります。ここでは水の祭祀をしていたと考えられます。
中央部の祭場は集落全体の祭祀を行っていたのでしょう。

黒田遺跡(古墳時代初頭)

黒田遺跡の建物と周辺環境
黒田遺跡全景
建物と周辺環境の分析
集落構成と区画 U-A類
区画なし
川べりに2か所の祭祀域あり
(祭祀土器が多く水辺の祭り?)
集落に3か所の祭祀場
建物 古墳時代初頭
 小型・中型独立棟持柱建物 2棟
心柱 心柱なし
柱の太さ やや太い柱
付帯設備 掘立柱建物
出土物
ランク:祭祀B
建物周辺:遺物なし(?)
土坑、川周辺:祭祀土器、木器

祭祀の形(妄想)
集落の中央に祭殿と付帯建物があり、川べりの掘立柱建物や土坑で水の祭祀を行っていたようです。
中央部の祭場は集落全体の祭祀を行っていたのでしょう。

稲部遺跡(弥生時代後期末〜古墳時代初頭)

稲部遺跡の建物と周辺環境
弥生時代後期後半から古墳時代中期まで存続した、湖東地方の拠点集落です。集落の範囲は径500mと推定される大規模な集落で、継続的に金属加工の痕跡が見られるのが特徴です。
稲部遺跡全景
建物と周辺環境の分析
集落構成と区画 U-C類
建物群:柵列
居住域は当初、離れていたが隣接するようになる
建物 小型独立棟持柱建物 2棟
 (隣接して建替え) 
心柱 心柱なし
柱の太さ 規模に見合った太さ
付帯設備 金属加工工房(竪穴建物)
工房を挟んで、田の字型(9本柱)建物や掘立柱建物
屋根付き井戸
出土物
ランク:祭祀B
工房周辺より鋳造、金属加工関連の遺物、銅製品が出ている
工房横に多量の土器、金属加工土製品
他の区画でも金属加工遺物が出ている(古墳時代初頭〜古墳前期)

祭祀の形(妄想)
集落の中央部に川を引き込み、そこに近接棟持柱建物(祭殿)を設けています。
溝が多いにもかかわらず、井戸を掘ってあるのは「水の祭祀」のためでしょう。
祭殿そばの溝だけではなく、居住域の井戸や土坑に祭祀用の土器が埋めているのは、その都度の祭祀を 現地で行ったと思われます。 

十里遺跡(弥生時代後期〜古墳時代初頭)

十里遺跡の建物と周辺環境
縄文時代〜古墳時代前期の遺構が確認できるが、最盛期は古墳時代後期後半から古墳時代初頭で、上述した下長遺跡と同時代に近接して栄えていた遺跡です。
銅釧や銅鏃、破鏡などの特殊な遺物が出ており中堅拠点集落のようです。
十里遺跡全景
建物と周辺環境の分析
集落構成と区画 U-B類
居住域と居住域の間にあり周囲は空閑地
建物は川と柵で区画
川べりに祭殿がある、井戸が多く見られる
居住域と墓域から独立
建物 弥生時代後期〜古墳時代初頭
 中型近接棟持柱建物 1棟
心柱 心柱なし
柱の太さ 規模に見合った太さ
付帯設備 井戸
出土物
ランク:祭祀B
祭殿横の溝や井戸、土坑から祭祀用土器 特殊な遺物;
 手焙型土器、銅釧片、破鏡、銅鏃

祭祀の形(妄想)
集落の中央部に川を引き込み、そこに近接棟持柱建物(祭殿)を設けています。
川があるにもかかわらず、井戸を掘ってあるのは「水の祭祀」のためでしょう。
祭殿そばの溝だけではなく、居住域の井戸や土坑に祭祀用の土器が埋めているのは、その都度の祭祀を現地で行ったと思われます。 
下長遺跡と同時代に近接して存在した中堅クラスの集落の祭祀のあり方として注目されます。
近江の独立棟持柱建物の分析結果のまとめ
弥生時代〜古墳時代初頭で詳細なデータを得られる8遺跡について分析しました。 まとめてみると、独立棟持柱建物は穀藏ではなく祭祀の場でした。祭祀対象により祭祀物の有無、質が違ってきて、多様な祭祀の形があったようです。

独立棟持柱建物は;

@T類(居住域内に存在)、V類(墓域に存在)のケースは見られなかった。
ただし、住居が竪穴建物という前提での判定である。下之郷遺跡の大型掘立柱建物や壁立建物が住居である可能性を指摘しており、この場合は、T類ということになる。下之郷遺跡の性格を考える上で重要な点であり、検討課題として残る。
A近江では、U類(独立棟持柱建物が居住域から独立)の形態で「特別な区域にあって特別な役割の建物」として機能していた。

祭祀の内容の観点では;

B下之郷遺跡を除き、共通しているのは「水の祀り」、「水辺の祀り」の痕跡
祭殿が川に面していたり、井戸があったり、祭祀施設が水辺に設けられ、そこから祭祀物が出土している。
伊勢遺跡では祭祀域のはずれに特別な導水施設が設置されており、「水の祀り」というより、儀式に使う「聖なる水」を得るための施設があった。この点で、伊勢遺跡の祭祀は他とは異なるものであると考えられる。
C祭祀用の出土物の量と種類は、遺跡や祭祀域によって大きく異なる
出土物が出ない(とても少ない)祭祀と貴重な祭祀物を多く使う祭祀があった。前者は伊勢遺跡と下鈎遺跡の北祭祀区で、後者は下之郷遺跡や下鈎遺跡の南祭祀区、下長遺跡などである。
Dここに祭祀の性格の違いがあると見て取れる。
前者は世俗から切り離して厳かに執り行う聖なる祭祀で、後者は人々に見せるため、あるいは実利にかかわる祭祀で貴重な祭祀物を使ってに盛大に行ったものと思われる。
E大胆に推測すれば、
伊勢遺跡は突出して規模が大きく、クニ造りの祀り、聖なる祀りを行っていた。
下鈎遺跡の北祭祀区の祭祀も、一般の人とはかかわりのない超高度な青銅技術に関わる祀り=聖なる祀りと言えよう。
特定の関係者の間で密やかに祭祀が行われたのかもしれない。
F下鈎遺跡南祭祀区、下長遺跡、稲部遺跡では物作り、水運に関わる、生活に密着した実利的な祭祀が行われていた。
 多くの人々がこの祭祀に参加したに違いない。 
G祀りの対象、集落の規模によって祭祀も異なる
祭祀物の種類・量に違いがあり、拠点集落と一般集落とでは祭祀物の種類に大きな違いがある。拠点集落では貴重品、威儀具も使われ、一般集落では主に土器が祭祀具として使われた。

(文責 田口一宏)

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