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こんなに凄い遺跡だった > 銅鐸祭祀圏を統合した近畿政権 > 弥生の祭祀から見えてくるる政治統合と近畿政権

銅鐸祭祀圏を統合した近畿政権(1)
  〜弥生の祭祀から見えてくる政治統合と近畿政権の誕生〜
野洲川下流域を離れて当時の列島内国々の様子を見てみましょう。
中国の古書によれば、小さな国々に分かれて争っていたようですが、弥生後期になるとそれぞれ共通した祭器を用いて、祭祀を軸にした大きなブロックとしてまとまっていたようです。北九州、中国、近畿、東海などではやがて大きな地域政権となっていきました。
弥生中期の青銅器祭祀(下之郷遺跡の時代)
弥生時代中期、小さな集落群が拠点集落を中心としてまとまっていたようです。中期後半には、古代中国の歴史書『漢書』地理志に、「この頃、倭国、分かれて百余国・・」と書かれているように、日本列島各地には小さな国が多く成立していました。
当時の倭国の国々はそれぞれの地域で独自の祭りを行っていたようですが、朝鮮半島からの影響もあり、青銅器で祭祀の道具を作り農耕にかかわるまつりごとを行っていました。そのような青銅祭器の分布を示します。
中期祭祀のシンボル 祭祀を大きく分けてみると、武器型祭器と銅鐸祭器に2分されます。
北九州から中国、四国にかけては武器型の祭器が用いられ、中国、四国、近畿、東海では銅鐸が祭器として使われていました。武器型祭器も地域によって形状が異なっており、地域性が見られます。銅鐸も10系統以上の形式に分かれでいました。
かっては、銅矛・銅剣文化圏と銅鐸文化圏と対峙したような見方もありましたが、出雲の荒神谷遺跡や摂津(神戸市)の桜ケ丘遺跡では、銅鐸と武器型青銅器が一緒に埋納された状態で発見されています。銅矛・銅剣祭祀と銅鐸祭祀の両方が行われていたようです。
また、北九州でも数は少ないものの、銅鐸の鋳型や銅鐸自体も見つかっており、銅鐸祭祀が行われていたようです。また、野洲川下流域でも銅鐸だけでなく銅剣が見つかっています。両者とも量としてはそれほど多くはありませんが、異なる祭祀も容認していたようです。
図からわかることは、100余国に分かれていても、青銅器祭祀に関してはいくつかのブロックにまとまっていたことです。
銅鐸の詳しい解説は省略しますが、この時期の銅鐸祭祀は、銅鐸を鳴らして音を聞く「聞く銅鐸」の祭祀です。弥生後期の「見る銅鐸」に比べると、銅鐸は小ぶりで、いろいろな種類のものが造られていました。
弥生後期の祭祀のシンボル(伊勢遺跡の時代)
弥生時代後期は、『魏志倭人伝』に記されているように、倭国に属する30余の国が分立していた時期です。 しかし、中期末の社会変動により、次第に武器型祭祀や銅鐸祭祀を続けている地域と、青銅器祭祀を止めて、墳墓をシンボルとしてまとまっていくより大きなブロックが現れます。
後期祭祀のシンボル山陰地方は銅鐸や銅剣の祭祀から四隅突出型墳丘墓をシンボルとした祭祀に変わります。瀬戸内地方は双方中円墳をシンボルとした祭祀に移ります。銅鐸祭祀を続ける四国・近畿・東海も、「聞く銅鐸」から大きくて華麗な「見る銅鐸」へと祭祀のやり方が変わります。その「見る銅鐸」の形式も「近畿式銅鐸」と「三遠式銅鐸」へと集約されていきます。
弥生後期には、30余の国々は、祭祀の統合を通じてより大きなブロックにまとまっていたことが判ります。
銅矛・銅剣祭祀を続ける北九州は、やがて大型広幅銅矛に統一されていきますが、それらは墓の副葬品ではなく、クニの祭祀に使用されるようになります。その一方で、豪華な装飾金具や大型中国鏡、鉄製武具を多数副葬する王墓が継続的に出現しており、ここに一大勢力(ツクシ政権)があったことが判ります。
九州に比べ、中国文明の到達が遅れていた近畿地方も、北九州との交流が進み、大陸系文物が急速に搬入され、原初的な集落構成から政治勢力の総合が進みます。
詳しくは後述しますが、地域政治勢力としては近畿地方の近畿政権と東海地方のオハリ(尾張)政権にまとまっていきます。瀬戸内地方では、キビ(吉備)政権が地域政権として巨大な墳丘墓を築き「特殊器台」、「特殊壷」を副葬します。山陰地方では四隅が突出した巨大な墳丘墓を築くイズモ(出雲)政権としてまとまります。
このように相争った30国も祭祀を共通する大きな地域政権にまとまって行きました。ここで大切なのは、武力による制圧ではなく、祭祀(宗教と言っていいか)を通じた統合であったことです。

(注)魏志倭人伝によれば、倭国の国々に名前が付いていたが、具体的にはどの地方を指すのか比定出来ていない。
   上図の各ブロックの中核となる國名を、便宜上、古代の国名を用いて表現している。
      出典:「共に一女子を立て〜卑弥呼政権の成立〜」 安土城考古博物館
銅鐸の変遷から見えてくる政治統合
次に、祭祀を通じて国々がまとまっていく過程を、もう少し詳しく見てみます。
奈良文化財研究所の難波洋三さんがまとめられた「銅鐸群の変遷」は、瀬戸内、近畿、東海に広がる銅鐸文化圏の銅鐸の様式の変遷を示すものですが、銅鐸製作工人をかかえる首長の動向をしめすもので、それは政治統合の流れを示すものでもあると考えます。
銅鐸の変遷の解釈についていはいろいろな見方がありますが、以下、難波さんの説に依っています。

見る銅鐸の第1次統合

弥生時代中期の「聞く銅鐸」の祭祀は、弥生中期から後期に移る社会混乱期に大半が埋納されて終わり、一時期中断した後に弥生時代後期に「見る銅鐸」として再開されます。
この時、10系統以上の種類があった「聞く銅鐸」は整理され、5つの系統の銅鐸がそれまでの形式や装飾を引き継いで「見る銅鐸」として、より大型化、装飾化が進みます。これら5系列の銅鐸群は、地域政権の意向を受けた銅鐸製作工人が、その地で作っていたと考えられます。
銅鐸のサイズや形式、文様は工人が決めるものではなく、政権の首長が政治地政学に沿って、自分たちのシンボルあるいはブランドとして決めたと考えて良いでしょう。
銅鐸の変遷
上の図は、5つの系統の現在の呼び名と推定される製作地方を示しています。さらにこれらの形式が統合され
近畿式銅鐸と三遠式銅鐸の2つの系統になっていきます。三遠式とは三河(みかわ)、遠江(とおとうみ)地方で多く発見された銅鐸で、地名の頭文字を付けています。

近畿式銅鐸と三遠式銅鐸の統合(第2次統合)

図に示したように、近畿式銅鐸近畿式銅鐸に統合されるとき、3系統の銅鐸の影響を受けています。矢印の太さが影響の度合いを示しています。すなわち、近畿式銅鐸は大福式銅鐸をベースとして、山陰・中国地方で作られた迷路派流水紋銅鐸の影響をかなり受けている、また、瀬戸内東部の横帯分割型銅鐸の影響も少し受けている・・・と、読み取れます。
また、三遠式銅鐸は2系統の影響を受けており、東海派銅鐸をベースとして、瀬戸内東部の横帯分割型銅鐸の様式をとり込んでいます。
このような銅鐸の統合は、大切な祭器の統合、言ってみれば政権のシンボルの統合であり、政治的な連携が進み、連合国家が形成された結果だと解釈されます。
このように、銅鐸の形式の変遷をとおして、政治統合の過程を読み解くことができます。
銅鐸の変遷
近畿式銅鐸と三遠式銅鐸の2系統に統合された後、それぞれが大型化、装飾の華麗化が進みます。この様子を、野洲市教育委員会の進藤武さんが図解されているので引用します。
図から年と共に大型化し、装飾が豊かになっていくのが判ります。このように統合化された銅鐸が、銅鐸圏各地より出土しています。
大型化し華麗な装飾・デザインになっていくのは、祭祀を壮麗化して権威を強調するためであり、現在の高層建築や高層タワーが「世界一」を目指す動向に似ていないでしょうか?
銅鐸分布図では、銅鐸圏西部が近畿式銅鐸を採用し、東部が三遠式を採用するという構図になっています。
そうして最後に、近畿式銅鐸に統合されていきますが、その時に三遠式銅鐸のデザインを一部で取り入れています。統一された近畿式銅鐸は、東海も含む銅鐸圏で広く発見されており、政治的にもオール銅鐸圏としてまとまったようです。
このような銅鐸の統合は、大切な祭器の統合、言ってみれば政権のシンボルの統合であり、政治的な連携が進み、連合国家が形成された結果だと解釈されます。
すなわち、倭国の統合への歩みを示しています。
このように、銅鐸の形式の変遷をとおして、政治統合の過程を読み解くことができます。
実は良好な関係であった近江と東海
従来、卑弥呼の晩年に、邪馬台国と狗奴国が戦争状態にあったとする「倭人伝」の記載から、近畿式銅鐸の勢力圏と三遠式銅鐸の勢力圏は対峙していたように言われていました。
しかし、土器の流れや銅鐸の文様、使われ方などを見ていると、2つの勢力圏は良好な関係を保ち、連邦的な間柄ではなかったかと思われるのです。
  • 弥生時代後期、近江型土器が東海に流れ込んで八王子古宮式土器が成立する
  • 近畿式銅鐸と三遠式銅鐸の祖形である大福型銅鐸と東海派銅鐸には類似点が多い
  • 大岩山では、両方の銅鐸が埋納されており、近江では両方を使った祭祀が行われていた
  • 東海でも、近畿型銅鐸が数多く出土している
このような事例を見ていると、近江と尾張は独自の文化を持ちつつ、相互に密接な関係を維持していたと考えて差し支えないでしょう。
まとめ
倭国が30の国に分かれており、後期末頃、倭国大乱があったとの文献がありますが、卑弥呼擁立の前夜頃には、祭祀を通して大きくまとまっていったと考えられます。
瀬戸内、近畿、東海に広がる銅鐸祭祀圏では、銅鐸の形状・文様の変遷から、倭国が統合されていく様子が読み取れます。

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