タイトル
 服部遺跡のミステリー  【投稿No.田口201701】
これまで、伊勢遺跡や下之郷遺跡のミステリーについて書きましたが、服部遺跡も数々の不思議や疑問がわいてきます。また、断定はできないものの、弥生時代中期の終焉をもたらした2000年前の大地震との関連が見えてきます。
お知らせ H30年1月12日
【意見の広場に「弥生中期を終わらせた巨大地震」を掲載しました】
この「服部遺跡はミステリー」のNo.6に記載した「弥生中期末に大地をえぐるような大洪水が起きたのは2000年前の巨大震災? 」では、2000年前の巨大地震が弥生社会へ及ぼした影響の概要を書きました。
従来の歴史の解釈を変える可能性のあるテーマであり、データを追記・補強して新たなタイトル「弥生中期を終わらせた巨大地震」として別項目で掲載します。 こちらから⇒[巨大地震]
はじめに
服部遺跡のホームページをまとめてみて、不思議に思うことがいくつかありました。
1.頻繁に起こる大洪水にもかかわらず、繰り返して生活の場をここに求める
2.膨大な数の方形周溝墓は誰(どの遺跡)が造ったのか?
3.拠点集落であるにもかかわらず、大型建物が見つからない
4.大規模な導水施設で誰が「聖なる水の祭祀」を行ったのか?
5.多くの手焙型土器があるのはなぜか?

また、大洪水の痕跡から、未曾有の大地震とのかかわりが見えてきました
6.弥生中期末に大地をえぐるような大洪水が起きたのは2000年前の巨大震災?

これらは証拠となる遺物・遺構を示して答えを出せるものではなく、状況証拠から推定するしか方法がないのですが、私見を述べてみます。
頻繁に起こる大洪水にもかかわらず、繰り返して生活の場をここに求める

服部遺跡と洪水の状況

服部遺跡の盛衰の流れを見ていると、100年〜200年間隔で遺構が埋没するような大洪水が起きています。でも、しばらくするとそこにお墓を造ったり、集落を構えたりするようになります。
服部遺跡の盛衰
服部遺跡の盛衰と洪水

弥生時代の平均寿命は30歳程度と言われており、100年間3世代も経過すると過去の災害は忘れ去られて、人々が住み着くようになるのでしょう。
このことは、最近の日本の津波災害と都市の再生をみても同じようなことになっています。
それはさておき、野洲川下流域を見てみると、拠点集落で弥生時代〜古墳時代まで続く遺跡は他にはありません。なぜ古代の人々はここに住み着くのでしょうか?
地理的な環境を考えてみます。
現在、我々が見ている川筋や湖岸線が、弥生時代も同じであったのか史料はなく、地形、地層などのデータから読み解くしかありません。

弥生時代の湖岸線は?

推定湖岸線 地図、地形をみると、野洲川南流・北流の天井川化と天井川沿いの微高地の発達が著しく、河口を湖中に突出させた尖状三角州を形成していることが分かります。現在見られる南北流2本の川が形作った尖状三角州が見事な三日月形になっています。
これらは、室町時代以降になり、人々が堤防を築き始めたために河道が固定され、急激に天井川化が進むとともに、土砂が河口から湖中に運ばれて尖状部三角州が形成されたものと考えられます。
したがって、その前の時代には尖状三角州はなく、湖岸はもっと内陸側にあったと考えられます。
かなり大雑把ですが、弥生時代の湖岸線、三角州の位置を、エイヤーで描いてみました。これまでの発掘成果や条里制の痕跡、川筋の痕跡などから、湖岸はもっと内陸側にあり服部遺跡は湖岸に近かったと推定されます。
すなわち、服部遺跡は湖岸に近く大きな川に面した湖上交通に便利な場所だったということになります。また、弥生初期の水耕稲作技術が未熟だった頃、稲作にも適した場所だったと考えられます。 これらのことが、人々が繰り返してここで営みを続けた理由ではないでしょうか?

膨大な数の方形周溝墓は誰が(どの遺跡)が造ったのか?
墓域 弥生時代中期、服部遺跡には500基以上の大きな方形周溝墓が300年にわたり連綿と築かれました。
  [ 方形周溝墓については こちらから ⇒ 方形周溝墓 ]
当時の服部遺跡周辺の拠点集落と墓域を見てみます。
野洲川下流域左岸(野洲川の西側)では拠点集落である下之郷遺跡が約4km離れたところにあります。下之郷遺跡の場合には、周辺の7か所に数基〜20基程度の方形周溝墓をもつ墓域があります。
野洲川右岸を見ると、大規模集落の八夫遺跡が3.5kmほど東側にあり、隣接する市三宅東遺跡も大きな集落です。これらの遺跡も周辺に墓域を持っています。これらもせいぜい数基〜20基程度の規模です。
では、服部遺跡の500基におよぶ墓を造ったのは誰でしょうか?
「服部遺跡」ホームページを見ればわかりますが、服部遺跡としては、集落の一部が見つかっているだけでどの程度の大きさの集落かはわかりません。
また、周辺にも数百基にも及ぶ方形周溝墓を必要とする大きな集落は見当たりません。これらを考え合わせると、服部遺跡のお墓を築いた人は次のようなケースが考えられます。
@服部遺跡の高水域や堤防の下あるいは外側に大集落があった。
服部遺跡が地下1.5m〜3mの深度範囲に存在し、橋脚工事で初めて発見されました。このことを考えると、近辺の三角州地下深くに集落跡、遺構があっても、意図して発掘しない限り見つかりません。
未発見の大規模集落は充分考えられるケースだと思います。
A周辺集落の共同墓地であった。
下之郷遺跡など拠点集落の近辺にお墓を築ける人(家族)は少なく、他の人達は当時の荒れ地であった服部地区を共同墓地としてお墓を築いた。(弥生初期の水田跡は、大洪水による多量の砂礫が積もる荒れ地になっていた)
下之郷遺跡では周辺に墓域群がありますが、広域拠点集落にしては見つかっているお墓の数は少なく、このケースAも当たっているのかも知れません。

拠点集落であるにもかかわらず、大型建物が見つからない
服部遺跡には広大な水田があったり、多くの方形周溝墓があったりして、近辺に大きな集落があったことを伺わせます。
弥生時代後期や古墳時代前期には、多くの竪穴住居があったし環濠集落も築かれました。しかし竪穴住居ばかりで、大型建物跡だけでなく掘立柱建物の柱跡さえも見つかっていません。
  [ 服部遺跡の集落については こちらから ⇒ 服部遺跡の集落
弥生中期の下之郷遺跡では多くの掘立柱建物、独立棟持ち柱付き建物、壁立建物が見つかっており、むしろ不思議なことに下之郷遺跡では竪穴住居跡が見つかっていないのです。服部遺跡の人たちが掘立柱建物を知らないはずはありません。
また、弥生後期には伊勢遺跡に多数の大型建物が建ちました。同時期の服部遺跡では竪穴住居しか見つかってないのです。
古墳時代前期、下長遺跡では独立棟持ち柱付き建物、掘立柱建物、竪穴住居が建っていました。一方、同時代の服部遺跡では、80棟くらいの竪穴住居跡しか見つかっていません。
下之郷遺跡建物
下之郷遺跡の建物(CG制作:田口一宏)
伊勢遺跡建物
伊勢遺跡の建物(CG制作:小谷正澄氏)
これをどう考えるか?
@服部遺跡近辺にまだ見つかっていない大きな集落に大型建物がある?
前節の「多数の方形周溝墓」での考察と同じです。
A下之郷遺跡や伊勢遺跡とは機能分担をしていた?
服部遺跡は居住域として営まれ、祭殿や大型建物は建てなかった?
服部遺跡と下之郷遺跡の間隔は約4kmであり、商業・統治機能の下之郷と 住宅地の服部を棲み分けていたとしてもうなずけることです。
それにしても、稲作が重要な産品であった時期に、収穫したお米を蓄える掘立柱建物の跡(弥生〜古墳時代)が見つからないのは不思議です。
大規模な導水施設で誰が水の祭祀を行ったのか?
導水施設は、古墳時代の遺跡、例えば、纒向遺跡や奈良の南郷大東遺跡などの重要な集落遺跡から発見されています。井戸や川から水を引き入れ、貯水した後、ろ過した上澄みの水を流す構造となっており、木樋をつないで水を流す構成になっています。
また、導水施設を模した、囲形埴輪がいくつかの古墳の祭祀域から出土しています。建屋の内部に導水施設を設け塀で囲った構造で、首長の水の祭祀(聖なる水を得る)に深く関わるものと言われています。 したがって導水施設のある集落は、大きな力を持った首長・豪族がいたところと言うことになります。
服部遺跡からは、川から水を引き入れ貯水した後、ろ過した上澄みの水を、木樋をつないで「聖なる水」を採取する施設に流す構成になっています。
総長25m以上の大規模な施設であり、石敷き部分には丁寧に加工した一本作りの木樋を設置し、上屋も設ける手の込んだ構築物です。にもかかわらず、周辺からは土器などの遺物は全く出ておらず、祭祀などに用いる浄水を得るための特別な施設あるいは祭場と考えられます。
纒向遺跡の導水施設
纒向遺跡の導水施設
服部遺跡の導水施設
服部遺跡の導水施設
纒向遺跡や奈良の南郷大東遺跡などの導水施設は、近辺に首長や豪族の居館や祭祀施設が見つかっています。伊勢遺跡の導水施設が古墳時代のものと同じような目的であったのか判りませんが、ここには立派な祭祀施設があります。
この点、服部遺跡では周辺には祭祀施設や豪族の居館は見つかっていません。
施設の性格から考えて、服部遺跡近辺に「聖なる水」を採取する首長がいたに違いありません。
上の項「大型建物が見つからない」のところで2つのケースを書きましたが、下之郷遺跡にいた首長が服部遺跡の導水施設まで儀式に来るにはちょっと遠すぎる気がします。そなると、ケース@の、服部遺跡の近辺に大型建物や祭殿が埋もれている可能性が強くなります。
非常に多くの手焙型土器(重要な祭器)が出てくるのはなぜか?
墓域 弥生時代後期に、近江型土器の鉢の上に覆(おおい:フード)が付いた、後世の手焙り用火鉢に似た土器が出現します。その形状に由来して手焙形土器と呼ばれています。
特異な形で、全国的に見ても圧倒的に出土数が少なく1000個程度です。また、製作された期間が非常に限られていて約150年程度です。
手焙型土器の正確な用途が何か分からないのですが、覆いの内面に煤が付いているものが出土しており、何かを燃やして使うことがあり、祭祀に使ったものと考えられます。
出現期には、野洲川流域と大和・伊賀地域で多く見られます。これらがびわ湖周辺、近畿、東海へ広がっていき、その後東日本、西日本に拡散していきます。
重要なのは、近江南部で発生し、最も古いものが伊勢遺跡で見つかっています。伊勢遺跡が出現し盛隆を極める頃に手焙型土器が出現し、卑弥呼が活動しているときに広まり、卑弥呼政権の終了時に無くなることです。すなわち、弥生時代後期から古墳時代前期という変動の大きな限られた時期に普及した祭祀用と考えられている土器です。
これが各地に広がっていくのですが、見つかっているのが重要な古墳や墳墓でそこから1個、2個の単位でしか見つかっていません。重要な祭器として用いられていたものです。
この手焙型土器が、卑弥呼が活躍する前〜活動する時期の服部遺跡から、破砕したものも含めると50個ほど出土しているのです。近江南部の遺跡でも、他の遺跡からは数個の単位でしか見つかりません。
なぜこれほど多くの手焙型土器が服部遺跡から出てくるのでしょか?
次のようなことが考えられます。
@服部遺跡が祭祀器具の製作と供給を担っていた?
弥生時代後期〜古墳時代前期の手焙り型土器が出てきますが、古墳時代前期に 大掛かりな導水施設がここに造られることを考えると、祭祀に係る大切な役割を 担っていたことが考えられます
A発掘面積が圧倒的に広いのでたくさん見つかった?
守山市の他の遺跡の発掘面積に比べ圧倒的に広く、結果として多く見つかった? という見方のあります。
守山市の工業団地造成で発見された下長遺跡も、服部遺跡に肩を並べるほど広大な面積を発掘していますが、見つかった手焙り型土器は破片状も含めて8個分です。
服部遺跡で見つかった手焙り型土器は、やはり特別に多いと見られます。
弥生中期末に大地をえぐるような大洪水が起きたのは2000年前の巨大地震?
ここに、2000年前の巨大地震が弥生社会へ及ぼした影響の概要を書きました。
従来の歴史の解釈を変える可能性のあるテーマであり、データを追記・補強して新たなタイトル「弥生中期を終わらせた巨大地震」として別項目として、意見の広場に「弥生中期を終わらせた巨大地震」を掲載しました。 こちらから⇒[巨大地震]

2000年前の大洪水の状況

このレポートの最初に「頻繁に起こる大洪水」について書きましたが、繰り返す大洪水の中でも、紀元0年あたり、時代で言うと弥生時代中期末、すなわち今から2000年前に起きた大洪水はとりわけ大きな影響をもたらしました。
15世紀に堤防が築かれ始める前は、洪水が発生しても洪水堆積物が広範囲に積み上がるだけでした。
服部遺跡での、洪水による土砂の堆積状況を下図左に示します。
土砂の堆積状況
洪水による土砂の堆積状況
伊勢遺跡建物
えぐり取られた水田跡−大きな河道が出現
弥生中期末の洪水では様相が違っています。この洪水により上流側の東西側がえぐり取られているのです。えぐり取られて出来た河道は幅が50〜60mもあります。特徴的なことは先端が細くなっており、川の中洲のような形状です。
一般に川の中洲は上流側、下流側共に先端が尖った形になっています。水の流れによる浸食によって端部がやせ細っていく状態です。

びわ湖の水がどっと逆流した?

この時の洪水は、堆積物を広い範囲に土砂を積み上げるだけではなく、激流となって低地の土砂を削り取っていったようです。では、その激流がどちらの方向から流れてきたか、ということですが、私は、下流側すなわち、びわ湖側から激流が押し寄せて陸地の土を剥ぎ取り、それがだんだん深い川状になっていき陸地の末端が細くなっていったと考えます。
これだけの激しい変化を起こす水量は野洲川の上流から流れてくるのではなく、びわ湖側から、どっと押し寄せたに違いありません。当時の服部遺跡は湖岸近くにあったので、より大きな影響を受けたのでしょう。
ではびわ湖の水を多量の揺り動かした原因は何だったのでしょうか?
思い当たるのは2000年前のマグニチュード9(M9)を超える南海地震です。平成23年に起きた東日本大震災を超えるだろう、といえる大きな地震が2000年前に中国・近畿・東海地方の太平洋沖で生じていたのです。
最近その様子、規模が明らかになってきました。このことは、後述することにして、2000年前の巨大地震でびわ湖が揺さぶられ、びわ湖でも津波が起きて野洲川三角州を遡上したのではないでしょうか?
「服部遺跡の盛衰と洪水」のところで、2000年前の大洪水、と書きましたが、ひょっとしたら、2000年前の大津波、と書くべきかもしれません。

2000年前の巨大地震

およそ2000年前の大地震で起きたとされる大津波の痕跡が、四国や九州、東海地方の三重県で見つかっています。津波の痕跡は、高知大学と名古屋大学の研究グループの調査で見つかったものです。
池の底で採取した地層から、過去の大津波で海底などから運ばれたとみられる砂の層が見つかり、この厚みから津波の規模が推定できるのです。
津浪の痕跡
2000年前の津波の痕跡

赤丸は、過去の津波による堆積物の層が
検出された個所

「津波堆積物からわかる巨大南海地震の歴史」
  (高知大学) を基に作図
四国、九州、東海で見つかった津波による砂の層は、いずれもおよそ2000年前の層が最も厚くなっており、300年余り前の「宝永地震」による砂の層の数倍にもなっていました。このことにより、これまで南海トラフで最大と考えられてきた「宝永地震」の津波より規模が大きいと考えられることが分かったということです。
宝永地震の推定強度がM8.6でしたが、2000年前の地震はM9を超え、東北地方大地震と同等かそれ以上だったと考えられます。三重県でも大きな津波の痕跡が見つかっていることから、南海地震と東南海地震が連動していたかもしれません。そうすると地震の規模はもっと大きかったことになります。
現在、将来に起こるかもしれない地震の予測が行われていますが、地震予測シミュレーションでは、もし、南海トラフによるM9レベル巨大地震が生じたら、30数mの津波が起きると予測されています。

2000年前の地震で何が起きたのか

2000年前の地震がM9かそれ以上だったとしてどのような被害が生じていたのでしょう?
東日本大震災の津波の大きさは最大で20m前後でした。この津波は陸地を遡上していき高地にまで達します。その遡上高さは最大で40mくらいでした。
2000年前、今のシミュレーションで予測される30mの津波が起きていたら、海岸近くでは30mの津波に押し流され、遡上した津波は60mくらいまで達していたのかも知れません。(遡上高さは津波高の数倍、という説もある)
また、震度ですが、阪神淡路大震災の時の揺れはM7.3でした。その時には近代的なビルや高速道路が倒壊しています。
これらを勘案すると、起きたに違いない被害は;
・地震の揺れによる、建物の倒壊・損傷、特に太平洋岸近くの集落は壊滅
・30mの津波、60m以上の遡上津波で太平洋側の集落は高台でも壊滅、
・瀬戸内の集落・港・船舶も破壊し、海運は壊滅した
・内陸の集落も揺れで倒壊、湖・河川から水が溢れて洪水による大被害
などが考えられます。

2000年前の地震がもたらした社会変化

実際に弥生中期末から後期にかけて生じた社会変化を見てみると;
・近畿地方の拠点集落、環濠集落は一斉に終焉し、その後は小さな集落のみ
野洲川下流域にあった複数の環濠集落が一斉に消滅
唐子・鍵遺跡や周辺の集落も一斉に機能停止
池上曾根曽根遺跡も衰退
・主たる流通経路が、瀬戸内ルートから日本海ルートへ変わる
弥生中期には瀬戸内海を介した地域間交流が盛んだったが、後期になり日本海沿岸地域における物流が活性化する
何らかの要因で、瀬戸内海ルートが衰退し、代替ルートとして日本海ルートが使われるようになった
・祭祀の形態が大きく変わる(中国・四国・近畿・東海)
銅器の祭祀から他の祭祀へ変える地域がある
銅鐸祭祀を続けた近畿、東海も「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」へ変わる
この時、これまでの「聞く銅鐸」は埋納される  
「見る銅鐸」も霊力を得るため(?)にどんどん大型化していく
従来の祭祀では通じない大きな災害にあい、祭祀を変えたり、変質させたり、より強力化(大型化)したのでは?
・定住型で広い高地性集落が数多く現れる
本来の見張り砦としての高地性集落とは違い、整備された定住型の大きな集落が100m程度の高地に営まれる。多くは瀬戸内、大阪湾に面した地域に見られる
60m以上の遡上津波を経験した弥生人は高台へと移住したのであろう
九州勢の東進に備えた防備や海上の見張り・・という説もあるが、整備された定住型の大集落は津波避難と考えれば納得がいく
・伊勢遺跡が突如として現れる
比較的被害の少なかった内陸の近江南部へ共同の祭祀施設を造った 余震も続く中、一つのクニでは天の怒りを治めきれない 銅鐸祭祀圏の クニグニが結束して造営した? 祭殿の円周上配列はクニグニの序列をつけないため?

これらの状況証拠は、地震・津波よる被害により生じた社会現象として考えれば辻褄がよく合います。
服部遺跡の大地が大洪水(びわ湖からの大津波)でえぐられたのもこの巨大地震の影響ではないでしょうか?
別の見方をすれば、弥生時代中期は2000年前の巨大地震で終焉を迎えたということになります。


文責:田口 一宏 

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