守山市の遺跡とその活用 【投稿No.高谷201409】
ここで述べる意見は;
地域活性化フォーラム「守山市の遺跡活用とこれから」 主催 守山商工会議所青年部
平成26年2月16日 於 守山商工会議所大ホール
の記念講演として
高谷好一氏(京都大学名誉教授、NPO法人守山弥生遺跡研究会 副理事長)
が発表されたものです。
地域活性化フォーラム「守山市の遺跡活用とこれから」 主催 守山商工会議所青年部
平成26年2月16日 於 守山商工会議所大ホール
の記念講演として
高谷好一氏(京都大学名誉教授、NPO法人守山弥生遺跡研究会 副理事長)
が発表されたものです。
はじめに
活性化を考えるときには、50年先を考えたいと思います。50年先の美しい守山の建設を目指したいと思うのです。
中央には琵琶湖があり、東には三上山、西には比叡山が締麗に見えます。平野には豊かな農地が広がり、そこには国の指定を受けた弥生遺跡が2つありす。さらに、そこに伝統を守り、心豊かに生きる人たちがいます。これが今の守山です。
私はこのきれいな町、守山を壊さないで、ますます磨きをかけたものにする。それを50年先の守山だと考えるのです。
ところで、この美しい景色・歴史・人々の組み合わせの中で、実際の内容はすごいにも関わらず、やや認知度の低いのが歴史、すなわち遺跡です。だから、今日は皆さん、この遺跡をもう少しよく知ろうではありませんか。そして、それをもっと前に出そうではないか、ということを申し上げたいのです。
中央には琵琶湖があり、東には三上山、西には比叡山が締麗に見えます。平野には豊かな農地が広がり、そこには国の指定を受けた弥生遺跡が2つありす。さらに、そこに伝統を守り、心豊かに生きる人たちがいます。これが今の守山です。
私はこのきれいな町、守山を壊さないで、ますます磨きをかけたものにする。それを50年先の守山だと考えるのです。
ところで、この美しい景色・歴史・人々の組み合わせの中で、実際の内容はすごいにも関わらず、やや認知度の低いのが歴史、すなわち遺跡です。だから、今日は皆さん、この遺跡をもう少しよく知ろうではありませんか。そして、それをもっと前に出そうではないか、ということを申し上げたいのです。
生態から見たときのアジアの中の日本
守山は世界的に見てもユニークなのですが、これは誇張ではなく、本当なのです。いきなり世界から見る前に、その前段として、まず日本のことを考えたいと思います。
日本は世界地図で見たとき、どんなところにあるのか、また世界史という時間軸で見たとき、どんな道筋をたどってきたのか、それを整理してみたいと思います。
また、河川や海を通じて、近隣集落同士の交易が盛んです。この生態生業区の北東端に日本が位置しています。図で「日本列島」としたところがそれです。
ここは、もともとは疎林帯だと思いますが、今は広く畑地の広がっているところです。畑地の広がりの中にはたくさんの町があります。その町の中で、歴史的に考えたとき、最大のものが長安です。これは★印で示しています。
この地区は、もともとの生態よりも、その後、生まれ出た文明で特徴づけられるところです。いわゆる黄河文明が作られたところであり、その後、4000年間にわたって、一大文明圏「中華世界」を作ってきたところです。中華文明の最大の特徴は「天子」と「律令制」の存在です。
この「中華世界」の西には砂漠が広がっています。中国の新彊ウィグル自治区から中央アジアを通って地中海まで続いています。
ここの住民はモンゴル人で、チンギスカンはその代表です。北方林では毛皮獣の狩猟が中心です。ここの住民の代表はツングース族といわれています。モンゴルとツングースはしばしば入り混じっていて両方とも戦闘力に優れた、いわば尚武の民です。
豊かな稲作・漁撈地にするのが最適なところです。
日本は世界地図で見たとき、どんなところにあるのか、また世界史という時間軸で見たとき、どんな道筋をたどってきたのか、それを整理してみたいと思います。
生態的に見たときのアジア
図1にアジアの植生と生業を図示しています。【モンスーン林と河、海辺】
一番南に「モンスーン林と河、海辺」としたところがあります。ここは広く常緑樹で覆われたところです。その中に、谷筋があって、そこでは稲作が行われています。漁撈も行われています。海辺でも漁撈は盛んです。また、河川や海を通じて、近隣集落同士の交易が盛んです。この生態生業区の北東端に日本が位置しています。図で「日本列島」としたところがそれです。
【中華世界】
その上に、斜線をほどこして「中華世界」としたところがあります。ここは、もともとは疎林帯だと思いますが、今は広く畑地の広がっているところです。畑地の広がりの中にはたくさんの町があります。その町の中で、歴史的に考えたとき、最大のものが長安です。これは★印で示しています。
この地区は、もともとの生態よりも、その後、生まれ出た文明で特徴づけられるところです。いわゆる黄河文明が作られたところであり、その後、4000年間にわたって、一大文明圏「中華世界」を作ってきたところです。中華文明の最大の特徴は「天子」と「律令制」の存在です。
この「中華世界」の西には砂漠が広がっています。中国の新彊ウィグル自治区から中央アジアを通って地中海まで続いています。
【草原と北方林】
中華世界の北には「草原と北方林」が広がっています。草原はこの地帯の南に分布し、北方林は北に分布しています。草原では遊牧が行われています。ここはまた騎馬軍団の世界でもあります。歴史を通じて何回もここの騎馬軍団はユーラシア大陸を席巻しました。ここの住民はモンゴル人で、チンギスカンはその代表です。北方林では毛皮獣の狩猟が中心です。ここの住民の代表はツングース族といわれています。モンゴルとツングースはしばしば入り混じっていて両方とも戦闘力に優れた、いわば尚武の民です。
日本列島はモンスーン林地帯にある
繰り返しになりますが、日本列島は稲作が主要な生業になる常緑林の世界です。豊かな稲作・漁撈地にするのが最適なところです。
日本列島の歴史
次ぎに日本列島がたどってきた歴史を考えてみたいと思います。私は図2のようなものかと考えています。
図では、紀元直前から2010年までを示しています。
この間は日本は「モンスーン林と河、海辺」の一員として、稲作と漁撈と短距離交易に生きていました。平和で民主的な時代だったと思います。
国指定を受けた下之郷遺跡や伊勢遺跡はこの時期のものです。守山が一番輝いていたのは、この時だったと考えています。だから図ではこの時代を「守山の時代」としています。
この境は一応、紀元後300年くらいにして います。この転換はツングース系の武力が到来して起こったのです。かつて江上波夫先生はモンゴル騎馬民が稲作農民の国、日本に到来してきて、古墳時代になったのだといわれました。彼らは住民を支配して、土地の首長になり、大きな墳墓を作ったのだというのです。
ツング―ス系の軍団がやってきて
稲作農民の国を支配して
大筋ではこの考え方は正しいのだろうと思います。大陸からある種の武力が到来して 世の中が変わったのです。
ただ、梅悼忠夫先生はモンゴル騎馬ではなく、ツングースの水軍がやってきたのだろう、といっておられます。
草原もずっと東に来て日本海の近くになると森林が多くなって、そこはツングースの世界になるのです。
昔の満州、それから今の北朝鮮あたりが、この地区になります。ここは川も多くあって、草原や森や川を利用した元気な人たちがいるところです。この人たちが鴨緑江や遼河に沿って南に移動してきて、韓半島に入り、さらには日本列島に到ったのだ、というのです。
私はこの梅樟さんの考え方の方がより正しいと思います。
こうしてみてみると、守山は平和なモンスーン林地帯にあり、その生態的特徴を活かして稲作と漁撈、交易に生きた弥生時代に華が咲いていた、といっても良いと思うのです。
図では、紀元直前から2010年までを示しています。
【弥生時代】
最初は弥生時代です。これは紀元前数百年の頃から、紀元後300年くらいまでです。この間は日本は「モンスーン林と河、海辺」の一員として、稲作と漁撈と短距離交易に生きていました。平和で民主的な時代だったと思います。
国指定を受けた下之郷遺跡や伊勢遺跡はこの時期のものです。守山が一番輝いていたのは、この時だったと考えています。だから図ではこの時代を「守山の時代」としています。
【古墳時代】
弥生時代の次ぎに来るのが、古墳時代です。この境は一応、紀元後300年くらいにして います。この転換はツングース系の武力が到来して起こったのです。かつて江上波夫先生はモンゴル騎馬民が稲作農民の国、日本に到来してきて、古墳時代になったのだといわれました。彼らは住民を支配して、土地の首長になり、大きな墳墓を作ったのだというのです。
ツング―ス系の軍団がやってきて
稲作農民の国を支配して
大筋ではこの考え方は正しいのだろうと思います。大陸からある種の武力が到来して 世の中が変わったのです。
ただ、梅悼忠夫先生はモンゴル騎馬ではなく、ツングースの水軍がやってきたのだろう、といっておられます。
草原もずっと東に来て日本海の近くになると森林が多くなって、そこはツングースの世界になるのです。
昔の満州、それから今の北朝鮮あたりが、この地区になります。ここは川も多くあって、草原や森や川を利用した元気な人たちがいるところです。この人たちが鴨緑江や遼河に沿って南に移動してきて、韓半島に入り、さらには日本列島に到ったのだ、というのです。
私はこの梅樟さんの考え方の方がより正しいと思います。
【飛鳥時代〜奈良時代】
この後、さらに時代が下って600年くらいになると隋、続いて唐から律令制度が入ってきます。奈良に中心が移り、いわゆる日本国が誕生しました。その後、いくつかの小さな変化はありましたが、日本は基本的には自信をもって日本国であり続けたと思います。【19世紀以降】
そして、19世紀になると黒船が到来し、これ以降、日本は大きく変化していきました。 自信をなくし、欧米の生活の仕方、考え方をとり入れて2010年代の本日に到っているのです。こうしてみてみると、守山は平和なモンスーン林地帯にあり、その生態的特徴を活かして稲作と漁撈、交易に生きた弥生時代に華が咲いていた、といっても良いと思うのです。
守山の遺跡
守山では弥生後期の伊勢遺跡と弥生中期の下之郷遺跡の2つが国指定史跡になっていますが、その他にもそれとひけをとらない遺跡があります。弥生前期の服部遺跡、古墳期の下長遺跡などです。これらの遺跡にはどんな特徴があるのか、何故、国の指定を受けているのかを見てみたいと思います。
そして、そのすぐ横には楼観といわれる建物があります。見張り塔を兼ねたかと思われる大きな高い建物です。さらに円周にくっついて、そのすぐ外側にこれまた大きな建物があります。半地下の建物ですが、床は粘土貼りで、それを火で焼いています。腰壁のあたりには焼成煉瓦を使っています。当時の日本には全く例をみない建物です。これは王の居館ではなかったのか、という意見があります。
こんな立派なところですが、土器などは全く出ない。生活の臭いが全くないのです。この点では下之郷遺跡とは全く違います。その代わり、神殿だの役所だの王の居館だのというものがあるのです。公的な場所のことを知ろうとすると大変重要な情報を与えてくれるのです。
実際、この遺跡から国の成り立ちに関するいろいろな考えが出されています、例えばこんな考えです。当時、邪馬台国に属する国々の首長が定期的にここに集まって、会議をしたのだ、ここは当時のG30の会場だったのだ、などという意見です。
この種の議論は大変大事なのです。邪馬台国の国々はそのまま連立を続けて連邦制でいくのか、それとも強力な独裁者が現れて中央集権的な国家に転換していくのか、ちょうど分かれ目に立っていたときです。だからそんなことが極めて、大きな関心事になるところだったからです。
先の「日本のイメージ図」でいくと、「民主的」な弥生の時代から「武断的」な古墳時代への転換点に当たっているのです。そしてに,こうした問題を解くカギを、この伊勢遺跡は持っているのです。
ついでに付け加えますと、下鈎遺跡のことも一緒に考えておいた方がよいなどともいわれています。これは伊勢遺跡から1.2kmほど南に行ったところにあり、現在の行政単位では栗東市に入ります。ここは金属加工などを盛んにやったところらしいのです。伊勢遺跡が政治の中心で、下鈎遺跡が工業の中心で、2つが組みになって強力な国のひとつを作っていた可能性もあるようなのです。こういうところまでを含めて、国の成り立ちを考えるのに、伊勢遺跡は絶対欠かせない遺跡なのです。
こうなってくると弥生時代の終わりから古墳時代のはじめにかけては伊勢(政治)‐下鈎(工業)‐下長(交易)というコンビネーションがあった可能性が考えられるのです。弥生時代の末期というのは守山周辺にはそんな文化・経済圏が出来ていたとも考えてよいようです。
守山周辺には弥生時代の日本の歴史がぎゅうっと一式詰まっているところなのです。服部遺跡(前期)から下之郷遺跡(中期)、伊勢遺跡(後期)、下長遺跡(古墳期)と、個々の遺跡ももちろん大きな意味があるのですが、しかし、それらを重ねると日本の弥生史全体が分かるというところ、それが守山なのです。
【下之郷遺跡】
これは直径200mくらいの環濠遺跡です。弥生の生活のタイムカプセルなどといわれています。環濠に囲まれた集落部からは、いくつかの建物跡が検出されていて、ムラの景観がわかるのです。環濠の中からは稲のモミや、木の葉や木片、魚の骨、その他のいろいろなものが出てきました。これで人々がどんなものを食べ、どんな日々の生活をしていたのかもわかるのです。弥生時代の生活が詳しく分かる、という点で価値ある遺跡として保存が決まったのです。【服部遺跡】
ここからは集落の近くにある水田と墓がたくさん発掘されました。これは史跡指定こそ受けていませんが、生活の全体像を知るためには捨てることのできない遺跡です。集落の中だけでなく、水田や墓といった集落の外の様子を知るためには極めて重要な遺跡なのです。【伊勢遺跡】
これは日本中を探しても、類例を見ないユニークな遺跡です。これも下之郷遺跡と同じ様に、円形をした遺跡です。しかし、環濠はありません。円周状に高床建物が並ぶのです。そして、その中央に方形に囲われたところがあって、その中には大きな建物が建っています。神殿か、政治を行った役所かだろうといわれています。そして、そのすぐ横には楼観といわれる建物があります。見張り塔を兼ねたかと思われる大きな高い建物です。さらに円周にくっついて、そのすぐ外側にこれまた大きな建物があります。半地下の建物ですが、床は粘土貼りで、それを火で焼いています。腰壁のあたりには焼成煉瓦を使っています。当時の日本には全く例をみない建物です。これは王の居館ではなかったのか、という意見があります。
こんな立派なところですが、土器などは全く出ない。生活の臭いが全くないのです。この点では下之郷遺跡とは全く違います。その代わり、神殿だの役所だの王の居館だのというものがあるのです。公的な場所のことを知ろうとすると大変重要な情報を与えてくれるのです。
この種の議論は大変大事なのです。邪馬台国の国々はそのまま連立を続けて連邦制でいくのか、それとも強力な独裁者が現れて中央集権的な国家に転換していくのか、ちょうど分かれ目に立っていたときです。だからそんなことが極めて、大きな関心事になるところだったからです。
先の「日本のイメージ図」でいくと、「民主的」な弥生の時代から「武断的」な古墳時代への転換点に当たっているのです。そしてに,こうした問題を解くカギを、この伊勢遺跡は持っているのです。
ついでに付け加えますと、下鈎遺跡のことも一緒に考えておいた方がよいなどともいわれています。これは伊勢遺跡から1.2kmほど南に行ったところにあり、現在の行政単位では栗東市に入ります。ここは金属加工などを盛んにやったところらしいのです。伊勢遺跡が政治の中心で、下鈎遺跡が工業の中心で、2つが組みになって強力な国のひとつを作っていた可能性もあるようなのです。こういうところまでを含めて、国の成り立ちを考えるのに、伊勢遺跡は絶対欠かせない遺跡なのです。
【下長遺跡】
これは伊勢遺跡の西北、1.5kmほどのところにあります。準構造船といって、かなり立派な船が出ています。丸木舟に波よけなどを付け足して、外洋航行にも耐えるようにした船です。また北陸方面の土器なども多く出ています。日本海などと交易した重要な港ではなかったかといわれています。この遺跡が一番栄えていたのは古墳時代だといいますが、伊勢遺跡の時代とも重なる期間があるのだといいます。こうなってくると弥生時代の終わりから古墳時代のはじめにかけては伊勢(政治)‐下鈎(工業)‐下長(交易)というコンビネーションがあった可能性が考えられるのです。弥生時代の末期というのは守山周辺にはそんな文化・経済圏が出来ていたとも考えてよいようです。
【野洲川デルタ世界】
三上山は24個という多数の銅鐸を出したところで有名です。弥生時代、おおいに栄えたいくつもの稲作社会が、弥生時代が終わるとともに、三上山の山麓にその銅鐸を収集して埋めた、ということなのでしょう。野洲川デルタの稲作社会は、ここでひとまずの区切りをつけて、古墳時代に入ったということなのでしょう。守山周辺には弥生時代の日本の歴史がぎゅうっと一式詰まっているところなのです。服部遺跡(前期)から下之郷遺跡(中期)、伊勢遺跡(後期)、下長遺跡(古墳期)と、個々の遺跡ももちろん大きな意味があるのですが、しかし、それらを重ねると日本の弥生史全体が分かるというところ、それが守山なのです。
他の著名な弥生・古墳サイトと比較したとき
守山はこうして野洲川デルタというのを容れ物にしたとき、極めてきれいな絵になるのです。だから、この絵を主軸にして、今後の守山の地域計画をたてようではないか、というのが私の提案です。
ところで、この守山の特性をもっとはっきりさせるためには、他の著名な弥生・古墳遺跡サイトと比較するとよいかと考えます。以下には、ごく簡単にそれを行ってみたいと思います。有名な地区は、みなそれぞれに売り物を持っているのです。
ここは『魂志倭人伝』に出てくる邪馬台国時代から存在する町々です。ここは壱岐、対馬、さらには韓半島の南岸をも含めて、古代に栄えた国際港地帯という点を最大の特徴としています。おそらくは、この地域性を売りに出してくるでしょう。向こうが国際港なら、こちら守山は稲作地というのが特徴です。
ここではこうした歴史が単に知識としてあるというのではありません。出雲人たちが身体の芯で、それをいまだに保持し続けている、ということが大きな特徴です。我々、外部者にはそうした出雲人たちが発し続ける怨念に似た雰囲気には最初から圧倒されるところがあります。出雲はそういう意味では黙っていても、そして何もしなくても圧倒的な存在感のあるところです。守山などとは対極にあるところといってもよいかと思います。
こ こは弥生後期前半だと、大和以上の強国でした。中国山地の鉄と、瀬戸内海航路を握っていたからです。また、このには作山・造山の巨大古墳があります。広大な氏子域を持つ吉備津神社もあります。こういうものを中心に地域作りが行われる可能性は充分にあるように見えます。
加えて、ここには日向神話があります。日向神話は天孫降臨の神話と黒潮系の神話からなっています。舞台が太平洋に広がっていく壮大な海の物語です。宮崎海岸はそれを売り物にしてくるでしょう。
ここは弥生後期の終わり頃から急に大きくなりました。伊勢遺跡と同じころ、伸び出していくのです。新しい古墳を造り、やがて箸墓古墳を造りました。これは長さが270m以上もあって、それまでには全く見られなかったような巨大墳墓です。そして、これが卑弥呼の墓ともトヨ(壱与)の墓ともいわれています。要するに、ここに邪馬台国があったのだろうというのです。伊勢遺跡の強力な対抗馬だとされています。
しかし、私たちはここでよほどしっかりしなければならないと思います。纒向は決して競争相手などではないのです。伊勢と纒向は全く違う方向を向いています。
図2をもう一度見直してください。伊勢も纏向もまさに弥生時代から古墳時代への転換期に栄えたものです。しかし、ここには大きな違いがあります。弥生時代の最高点点と捉えるか、古墳時代の出発点と捉えるか、という違いです。民主的で連邦的な弥生の邪馬台国連合のひとつとみるか、独裁的、武断的な古墳時代の先導者とみるか、という違いです。
現在のところ、守山の考古学者たちは伊勢遺跡は民主的な弥生社会の極相だと考えておられるようです。一方、縄向遺跡の関係者は、ヤマト政権から日本国に続いていく中央集権的な流れの出発点だと考えておられるようです。そして、それぞれに、その方向に誇りを持っておられるようです。
私たちはこの違いをはっきりさせることによって、はじめて本当の意味で、守山の遺跡を活かすことになる、と私は思うのです。
いくつかの地域を拾い上げて、その特徴を述べてみました。どの地域も、その特性を充分に活かした地域作りをするに違いありません。
守山も、同じ様に個性を出さねばならないのです。その個性とは、美しくて、平和で民主的な農・漁・商混合空間ではないか、と私は思います。40数年前、守山市ができたときに「田園都市守山」というスローガンを出しました。今は、The Garden Cityといっています。この線が進むべき道かと私は思います。
美しい湖国
【北九州地区】
ここで北九州地区といっているのは、小倉などのある北九州市ではありません。そうではなくて、福岡、前原、唐津などのある玄海灘に面した港町群です。ここは『魂志倭人伝』に出てくる邪馬台国時代から存在する町々です。ここは壱岐、対馬、さらには韓半島の南岸をも含めて、古代に栄えた国際港地帯という点を最大の特徴としています。おそらくは、この地域性を売りに出してくるでしょう。向こうが国際港なら、こちら守山は稲作地というのが特徴です。
【出雲】
ここは『出雲神話』が売り物になるのです。オオクニヌシのいた国、天孫族に国譲りをした国、神々のいます国といったものが売り物です。ここではこうした歴史が単に知識としてあるというのではありません。出雲人たちが身体の芯で、それをいまだに保持し続けている、ということが大きな特徴です。我々、外部者にはそうした出雲人たちが発し続ける怨念に似た雰囲気には最初から圧倒されるところがあります。出雲はそういう意味では黙っていても、そして何もしなくても圧倒的な存在感のあるところです。守山などとは対極にあるところといってもよいかと思います。
【吉備】
吉備人にも、ある意味では出雲に似た、やや屈折した、しかし強い自信があります。こ こは弥生後期前半だと、大和以上の強国でした。中国山地の鉄と、瀬戸内海航路を握っていたからです。また、このには作山・造山の巨大古墳があります。広大な氏子域を持つ吉備津神社もあります。こういうものを中心に地域作りが行われる可能性は充分にあるように見えます。
【宮崎海岸】
ここはまた極めて特異なところです。大きな西都原古墳群があります。この古墳群はそれだけで観光客をひきつけるに充分なものです。加えて、ここには日向神話があります。日向神話は天孫降臨の神話と黒潮系の神話からなっています。舞台が太平洋に広がっていく壮大な海の物語です。宮崎海岸はそれを売り物にしてくるでしょう。
【纒向遺跡】
しかし、おそらく私たちが最も気にしなければならないのは纒向遺跡でしょう。ここは弥生後期の終わり頃から急に大きくなりました。伊勢遺跡と同じころ、伸び出していくのです。新しい古墳を造り、やがて箸墓古墳を造りました。これは長さが270m以上もあって、それまでには全く見られなかったような巨大墳墓です。そして、これが卑弥呼の墓ともトヨ(壱与)の墓ともいわれています。要するに、ここに邪馬台国があったのだろうというのです。伊勢遺跡の強力な対抗馬だとされています。
図2をもう一度見直してください。伊勢も纏向もまさに弥生時代から古墳時代への転換期に栄えたものです。しかし、ここには大きな違いがあります。弥生時代の最高点点と捉えるか、古墳時代の出発点と捉えるか、という違いです。民主的で連邦的な弥生の邪馬台国連合のひとつとみるか、独裁的、武断的な古墳時代の先導者とみるか、という違いです。
現在のところ、守山の考古学者たちは伊勢遺跡は民主的な弥生社会の極相だと考えておられるようです。一方、縄向遺跡の関係者は、ヤマト政権から日本国に続いていく中央集権的な流れの出発点だと考えておられるようです。そして、それぞれに、その方向に誇りを持っておられるようです。
私たちはこの違いをはっきりさせることによって、はじめて本当の意味で、守山の遺跡を活かすことになる、と私は思うのです。
いくつかの地域を拾い上げて、その特徴を述べてみました。どの地域も、その特性を充分に活かした地域作りをするに違いありません。
守山も、同じ様に個性を出さねばならないのです。その個性とは、美しくて、平和で民主的な農・漁・商混合空間ではないか、と私は思います。40数年前、守山市ができたときに「田園都市守山」というスローガンを出しました。今は、The Garden Cityといっています。この線が進むべき道かと私は思います。
美しい湖国
今、具体的な作業として何が求められるのか?
以上で私の話したかったことは全てです。しかし、これは50年先を目指したもので、すぐに、という意味ではあまりにも役に立たない話のように見えます。それで、最後に、今すぐ何をしたらよいのかについて、いささか述べさせていただきます。大きくは2つのことがあろうかと考えています。
第一は市民パワーの盛り上がりということです。
これが一番大切なことです。今朝も田中照男さんの作られたジオラマを見せていただきました。すぐに「これだ!」と思いました。これだけのものを見せられると、人々はいやでも伊勢遺跡のすばらしさを実感させられます。また、あれを見た人の中には、自分も遺跡活用の活動に参加してみたいと思う人も出てくるに違いないと思います。個人の強烈な意志が社会を動かす起爆剤になるのです。
同じ起爆材という意味で、今回、このフォーラムもそうです。商工会議所青年部の発意で卑弥呼祭りができ、卑弥呼をうたうお店も出ました。まち全体が元気になってきたのです。
今ひとつは、いわゆるNPO活動かとおもいます。丁度この2月にも、遺跡の活用を目指したNPOがつくられました。下之郷遺跡や伊勢遺跡に関する、極めて内容豊富なホームページを作成して、全国に向けて発信するというものです。これと同時に、このNPOは遺跡利用に関する自由な意見を載せることができる広場も用意しています。こうした市民のパワーが遺跡活用に関しては本当に重要なものだと思うのです。
今ひとつ大事なことは、行政の役目です。何といってもお金のかかる大きな事業は行政 が中心にならないとできません。それに多様な市民の活動を総括するのにも、市役所のもつ求心力が必要だと思います。今までは、文化財といえば考古学者の研究対象という見方が優勢でした。しかし、世の中は変わってきました。文化財は市民全体の財産であり、市民全体がこれをどう利用するかを考えねばならないという時代に入ってきています。こういう現状のもとでは、行政側の仕組みも少し変えていただかねばならないのではないか、と思っています。要するに官民あげて新時代に対応しようではないか、ということです。
言葉足らずのところが多々ありますが、表題の件に関して私が考えていることの粗筋は 以上です。
第一は市民パワーの盛り上がりということです。
これが一番大切なことです。今朝も田中照男さんの作られたジオラマを見せていただきました。すぐに「これだ!」と思いました。これだけのものを見せられると、人々はいやでも伊勢遺跡のすばらしさを実感させられます。また、あれを見た人の中には、自分も遺跡活用の活動に参加してみたいと思う人も出てくるに違いないと思います。個人の強烈な意志が社会を動かす起爆剤になるのです。
同じ起爆材という意味で、今回、このフォーラムもそうです。商工会議所青年部の発意で卑弥呼祭りができ、卑弥呼をうたうお店も出ました。まち全体が元気になってきたのです。
今ひとつは、いわゆるNPO活動かとおもいます。丁度この2月にも、遺跡の活用を目指したNPOがつくられました。下之郷遺跡や伊勢遺跡に関する、極めて内容豊富なホームページを作成して、全国に向けて発信するというものです。これと同時に、このNPOは遺跡利用に関する自由な意見を載せることができる広場も用意しています。こうした市民のパワーが遺跡活用に関しては本当に重要なものだと思うのです。
今ひとつ大事なことは、行政の役目です。何といってもお金のかかる大きな事業は行政 が中心にならないとできません。それに多様な市民の活動を総括するのにも、市役所のもつ求心力が必要だと思います。今までは、文化財といえば考古学者の研究対象という見方が優勢でした。しかし、世の中は変わってきました。文化財は市民全体の財産であり、市民全体がこれをどう利用するかを考えねばならないという時代に入ってきています。こういう現状のもとでは、行政側の仕組みも少し変えていただかねばならないのではないか、と思っています。要するに官民あげて新時代に対応しようではないか、ということです。
言葉足らずのところが多々ありますが、表題の件に関して私が考えていることの粗筋は 以上です。
文責:高谷 好一
絵画:中井 純子 |