こんなに凄い遺跡だった > 大洪水による破壊と再生 服部遺跡
大洪水による破壊と再生 服部遺跡
服部遺跡は日本各地で見られた弥生時代の拠点集落の一つとして一般的な遺跡ですが、ここで見つかった水田跡、方形周溝墓群は日本有数の規模です。それと、大洪水による破壊と再生を繰り返した「たくましい弥生遺跡」でもあります。
また、発見され、調査され、工事により消滅する経過にも心打たれるものがあります。
また、発見され、調査され、工事により消滅する経過にも心打たれるものがあります。
服部遺跡とは
野洲川の北流と南流に囲まれた川筋に栄えた遺跡で、縄文の痕跡から弥生、古墳、奈良、平安までの遺構・遺物が見つかる総合的な遺跡です。
弥生時代として一般的な拠点集落ですが、日本最大規模の水田跡や日本最多クラスの方形周溝墓群が見つかっている所です。
この遺跡の発見と消滅の歴史を見てみましょう。
北流と南流は治水対策で堤防が幾度も積み上げられ、いわゆる天井川となっていました。この川がたびたび大洪水をもたらすため、昭和46年に南北流の間に放水路を造る工事が開始されました。
この辺りは過去の災害による土砂の推積が著しく、それまでは遺跡の存在は全く知られていなかったのです。
昭和49年になり、下層に遺跡があることが判りました。このため、開削工事を中断して遺跡調査を行うのですが、下層から次々と広大な遺構が見つかるため、遺跡調査と放水路開削との間で軋轢が生じていました。
このように、放水路工事がきっかけで、幸いにも見つかった遺跡ですが、昭和54年、発掘調査の終了と共に、工事再開によって不幸にも消滅してしまった遺跡です。
通常、道路工事や大規模店舗開発などで見つかった遺跡は、調査後、埋め戻して遺跡が傷まないように保存対策をとって工事を続けます。遺跡は地下に埋もれてはいるものの破壊は免れています。
しかし、服部遺跡は洪水対策の放水路工事により消えてしまいました。
弥生時代として一般的な拠点集落ですが、日本最大規模の水田跡や日本最多クラスの方形周溝墓群が見つかっている所です。
服部遺跡の位置 |
放水路の開削工事(左の地図とは方位が逆)【守山市教委】 |
北流と南流は治水対策で堤防が幾度も積み上げられ、いわゆる天井川となっていました。この川がたびたび大洪水をもたらすため、昭和46年に南北流の間に放水路を造る工事が開始されました。
この辺りは過去の災害による土砂の推積が著しく、それまでは遺跡の存在は全く知られていなかったのです。
昭和49年になり、下層に遺跡があることが判りました。このため、開削工事を中断して遺跡調査を行うのですが、下層から次々と広大な遺構が見つかるため、遺跡調査と放水路開削との間で軋轢が生じていました。
このように、放水路工事がきっかけで、幸いにも見つかった遺跡ですが、昭和54年、発掘調査の終了と共に、工事再開によって不幸にも消滅してしまった遺跡です。
通常、道路工事や大規模店舗開発などで見つかった遺跡は、調査後、埋め戻して遺跡が傷まないように保存対策をとって工事を続けます。遺跡は地下に埋もれてはいるものの破壊は免れています。
しかし、服部遺跡は洪水対策の放水路工事により消えてしまいました。
度重なる大洪水による破壊と再生
遺跡全体を押し流すような、あるいは、土砂が50cmほども覆い尽くすような大洪水が幾度も、この服部遺跡を襲いました。下の図は、集落を押し流し土砂が厚く覆いかぶさるような洪水と集落の関係を示しています。
洪水が起きるたび、しばらくすると人々は立ち上がり大きな集落やお墓を造ります。
服部遺跡の盛衰 注:暦年表は 守山市文化財保護課 による
この結果、服部遺跡は下図に示すような地層構造となり、時代を追って歴史を見ることのできる遺跡として残されました。
野洲川下流域の拠点集落の多くが、比較的短期間(50年〜150年程度)で衰退していくのに対し、服部遺跡は、唯一、弥生前期から平安時代まで存続した遺跡です。野洲川下流域の中核的な拠点集落として機能していたと考えられます。
服部遺跡の地層構成の模式図
洪水が起きるたび、しばらくすると人々は立ち上がり大きな集落やお墓を造ります。
服部遺跡の盛衰 注:暦年表は 守山市文化財保護課 による
この結果、服部遺跡は下図に示すような地層構造となり、時代を追って歴史を見ることのできる遺跡として残されました。
野洲川下流域の拠点集落の多くが、比較的短期間(50年〜150年程度)で衰退していくのに対し、服部遺跡は、唯一、弥生前期から平安時代まで存続した遺跡です。野洲川下流域の中核的な拠点集落として機能していたと考えられます。
服部遺跡の地層構成の模式図
【弥生前期の米つくり】弥生前期、米つくりが始まります。見つかっているだけで、水田跡は260面、約2万uに及びます。しかし、残念ながら外側の広い範囲が古墳時代の大きな川によって押し流されていました。古墳時代の川によって破壊された水田や放水路開削工事の範囲外も考え合わせると、この数倍の水田が広がっていたと考えられます。ここは、現在の地表から2.5〜3mほど下になります。 近くの微高地には住居跡も見つかっており、米つくりの指標とされる遠賀川式土器も多量に出土しています。小さな洪水に何度か見舞われながらも100年ほど田んぼとして使用されました。 しかし大洪水に押し流され、40〜50cmの土砂に覆われて埋もれてしまいます。 |
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【弥生中期は広大な墓場と集落】その後、土地は乾燥し荒れ地となるため、水田はつくられずに、墓場として使われるようになります。約8万uの範囲に方形周溝墓群が営々と造り続けられ、およそ300年の間に360基以上の規模になりました。この川筋には服部遺跡しか見つかっていませんが、服部遺跡と同様、地中深く埋もれている集落が幾つもあったに違いありません。これらの周辺の集落の人々は、ここを墓域と定めて、方形周溝墓を作っていたようです。その墓場も、大洪水で埋没してしまいました。 |
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【弥生後期の環濠集落】弥生後期になると、人々が竪穴住居を造ります。そうして後期中頃には環濠集落へと発展していきます。環濠は、直径が約150mで溝の幅3〜5m、深さ2m程度でV字形をしていました。環濠からはおびただしい数の土器と少量の木製品が出てきました。環濠の内側には数棟の竪穴住居しか見つかっておらず、後世に削平された可能性が強いようです。環濠が消滅すると、直後に大規模な洪水か氾濫があり、集落が押し流されてしまいます。この時期、服部遺跡だけではなく、野洲川左岸の氾濫原にあった集落も洪水に見舞われたり、新しい川ができたりしています。 |
環濠集落跡(服部遺跡)【守山市教委】 |
【古墳時代の集落と古墳】その後長らく、住居やお墓が造られることは無かったのですが、古墳時代前期、3世紀後半になると100棟以上の竪穴住居が建てられます。その時代、聖なる水を得るための導水施設も設けられました。それもやがて、台風か自然災害による洪水などで呑み込まれてしまします。 古墳時代中期の5世紀後半になると、この辺りには、古墳が造られるようになります。周囲に幅2.5m〜5mの溝を持つ円墳や方形墳が29基も築かれます。古墳の墳墓は削平されていますが、現在の地下約1.5mあたりです。 さらにその上層には、奈良・平安時代の遺構が見つかります。 |
まとめ
服部遺跡周辺は地形からも分かるように、野洲川がどんどん三角州をつくり上げている場所です。
そこに弥生時代初期の遺構から近世までの遺構が層をなすようにして積上げられています。
一つひとつの遺構は、どこかの遺跡で見られるものですが、洪水により土砂が積み重なって保護層となり、遺構として保存されました。 この結果、時代を追って歴史を見ることのできる素晴らしい遺跡なのです。
それと、洪水によって破壊されても、再び立ち上がって生活の場を作り上げる人々のたくましさを感じます。
ただ、この点に関しては、過去の災害を忘れて災害の跡地に住む現代人と同じだ、と見るべきでしょうか?
そこに弥生時代初期の遺構から近世までの遺構が層をなすようにして積上げられています。
一つひとつの遺構は、どこかの遺跡で見られるものですが、洪水により土砂が積み重なって保護層となり、遺構として保存されました。 この結果、時代を追って歴史を見ることのできる素晴らしい遺跡なのです。
それと、洪水によって破壊されても、再び立ち上がって生活の場を作り上げる人々のたくましさを感じます。
ただ、この点に関しては、過去の災害を忘れて災害の跡地に住む現代人と同じだ、と見るべきでしょうか?