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巨大で美しい多重環濠集落 下之郷遺跡(1)
  〜並周する多重環濠〜
下之郷遺跡は弥生時代中期の大規模環濠集落で、国史跡に指定されています。多重環濠が集落をぐるりと取り囲み、環濠や井戸からは他の遺跡では見られない貴重な遺物が多数見つかっています。
環濠の内部には、当時の一般的な竪穴住居はなく、大型建物が数多く立ち並んでいました。
下之郷遺跡はこんな遺跡
下之郷遺跡は、滋賀県守山市下之郷町で発見されました。幅の広い環濠(幅5〜8m)が、集落のまわりに3重、一部には、さらに外側に3重が巡らされている多重環濠集落です。環濠内集落の規模は、東西330m、南北260m、面積はおよそ7haにおよびます。
さらに、その外側にも生活の痕跡や大きな濠が残されており、生活区域はさらに広がっています。
そのような外周辺まで含めた遺跡全体の規模は東西670m、南北460m、約25haにおよび、弥生時代中期の集落としては県下最大、全国でも屈指の規模を誇ります
集落を巡る環濠からは、土器に加えて多数の木器や石器など、当時の政治動向や社会、人々の生活をうかがうことのできる出土品が数多く発掘され、当時の自然環境も復原できる遺跡であることから、平成14年3月に国指定史跡となりました。


  下之郷遺跡全体図 出典:発掘報告書より作成
遺跡の保存と活用を図るために、平成22年には環濠が巡らされている場所に下之郷史跡公園が開設されました。
環濠の特徴
【環濠集落の規模の大きさ】
3重の環濠が周回している集落の規模は、東西330m、南北260mと想定され、当時としてはとても広い、巨大な集落です。しかも、これだけ大きな多重環濠が、集落を完全に周回している弥生遺跡は他ではあまり見られません。
【多重の環濠】
3重の環濠が集落全体を取り囲み、集落の東側は、その外側にも3重〜6重(計6重〜9重)の環濠が並行して発見されています。集落の西側は発掘されておらず、外側の環濠の存在は判りません。
これらの環濠が同時に存在した訳ではないのですが、これだけ多重の環濠が巡っている遺跡はまれです。
写真
 多重環濠
写真
 多重環濠
【大きな濠】(写真左)
内側の3重の環濠は幅5〜8m、深さ1.5〜2mと幅が広く深い濠です。この濠の外側には土塁があったと考えられますが、後世に削り取られ残っていません。
【多量の埋蔵物】(写真右)
環濠の中からは多量の多種多様の遺物が見つかるのも大きな特徴です。他所では見られぬ有機遺物がいろいろ出土しており、新発見もありました
写真
 人の背丈よりも深い溝
写真
 多量の埋蔵物
環濠の写真 【守山市教委】
外周環濠はあったのか?
図から判るように、3重環濠の外側にも大きな溝が見つかっています。北西部外縁には2重の大溝があり、この溝と3重環濠の間の様子は少ししか判っていませんが、人が住んだ痕跡が見られます。北東部外縁、南東部外縁にも3重環濠を取り囲むように数条の環濠が見つかっています。
これらの外縁部の溝が、つながって外周環濠となるのか、途切れているのか? あるいは、北東部には独立した小さな環濠があって、3重環濠と眼鏡型に2つ並んでいるのか? 
現在までの発掘成果だけでは結論の出すことは難しいですが、外周環濠があった可能性は捨てきれません。
もし、外周環濠があっとしたら、外周環濠(東西670m、南北460m)と内周環濠(東西330m、南北260m)の二重構造になります。
美しい環濠 見せる環濠?
下之郷遺跡の環濠を各地の大規模環濠と比べてみます。それぞれの遺跡で環濠の目的があって築かれたものを形状で比較するのは筋違いかも知れませんが、形を見てみます。 環濠の大きさ、環濠の条数、それは並行しているか? 完周しているか? きれいな形状か?
こうして見ると、下之郷遺跡の環濠は、楕円形の多重環濠が等間隔で並行して集落をぐるりと巡っており、非常に美しいものです。
「見せる環濠」ではなかったのかと思わせるほどです。


出典:安土城考古博物館「ムラの変貌−稲作と弥生文化」=⇒

環濠・井戸は弥生のタイムカプセル
下之郷遺跡一帯は、野洲川の伏流水の恩恵を受け、豊富な地下水に恵まれています。泥水によって空気が遮断されたため、多様な動植物遺体があまり腐食することなく、非常に良好な状態で地下に保存されています。例えば、井戸跡や環濠から発見された稲籾や樹木の葉が黄色や緑色の色のままで残っており、下之郷遺跡はまさに「2200年前のタイムカプセル」ともいうべき遺跡です。
  (残念ながら、見つかった緑色の葉っぱも、空気に触れると短時間で黒ずんでいきます)

  内容の詳細は 次節「弥生のタイムカプセル」でご覧下さい。

下之郷遺跡の詳細はこちらをクリックして下さい ⇒ 下之郷遺跡ホームページ


中心部に整然と建てられた大型建物
下之郷遺跡の環濠の内部には、当時の一般的な竪穴住居はなく、大型建物が数多く立ち並んでいました。 当時の大きな拠点集落にしか見られない、独立棟持柱付き建物や壁立式建物がここで見つかっており、特異な集落であったと思われます。
計画的に配置された大型建物
弥生時代の住まいと言えば竪穴住居が一般的で、倉庫や集会場、祭殿などには掘立柱建物が使われたと言われています。 下之郷遺跡では不思議なことに竪穴住居は1棟も見つかっておらず、ほとんどが掘立柱建物か壁立式建物です。
掘立柱建物は20棟ほど見つかっており、伊勢遺跡の建物に匹敵する広さ床面積40u以上の大型建物も6棟ありました。そのうちの1棟は妻側(建物の屋根の軸側)の離れた所に独立棟持柱のある建物です。この独立棟持柱付き建物は、滋賀県では最も古く、この時期にしては非常に珍しいことです。
掘立柱建物は、高床式建物とも呼ばれており、東南アジアでよく見かける形式で、1階の床を地面から2m近く離して作るものです。中国の長江流域から北方〜韓半島にかけてはこの形式の建物は見つかっていません。東南アジさから遠く離れた下之郷遺跡でそれが見付かっています。多くの日本の弥生遺跡からは見つかっているもので、稲作と関連する建物と考えられています。
独立棟持柱付き建物も東南アジアで見かけるもので、日本では拠点集落で発見されることがありますが、それほど多くは見つかっていません。
中央部の掘立柱建物群は、東西、南北の方向を意識して建物の向きが統一されています。また、これらの建物の周囲には小さな溝で方形の区画を設けてあり、この時代に 、建物に計画性を持たせて整然と配列しているまれなケースです。
壁立式建物は円形または長方形の平面の周囲に壁を立て、その上に屋根を葺いています。壁立式建物は中国から朝鮮半島に起源を持ち、西日本の大型拠点集落でしか見つかっていません。下之郷遺跡では壁立式建物が9棟も見つかっており、その内、2棟は直径10m前後の大きな建物でした。
下之郷遺跡は、当時の一般的な竪穴住居が一つもなく、東南アジアや中国・朝鮮に起源を持つ建物ばかりが立ち並ぶ・・・という風景でした。

竪穴住居
竪穴住居
壁立式建物
壁立式建物
掘立柱建物
独立棟持柱付き建物
出典: 守山市誌(考古編)
集落のイメージ
下のイラストは、環濠内の中心部分から見つかっている建物の種類、配置を示したものです。
独立棟持柱建物の周囲に、円形壁立建物、方形壁立建物、掘立柱建物が整然と並んでいます。
出入り口は東西2ヶ所で見つかっていますが、入口付近には柵が設けられ、番小屋が建てられています。
環濠内には、竪穴住居はなく、大型建物しか見つかっていません。
南方系の色彩が強い遺物や建物が多い、また朝鮮系の特殊な建物が多くある、多重環濠や出入り口の厳重な監視などを考え合わせると、ここは渡来人が集まってくる交易センター、ネットワーク拠点のように思えてきます。
環濠内部のイメージ
下之郷遺跡の環濠内部の集落イメージ 【画:中井純子氏】
歴史的意義−近江勢力の基盤を築いた環濠集落
【下之郷遺跡の変遷】
下之郷遺跡は近江を代表する環濠集落です。
環濠集落は水稲農作と共に伝わってきました。稲作が定着し拡大していく中で、村落間で富の所有や土地、水利の争いが生じ、防御の目的で造られたと言われています。
近江盆地は水耕稲作に適した広大な土地がありますが、稲作の拡大につれ初期稲作に適した三角州から内陸側に広がって行きました。下之郷遺跡もその流れの中で、よりびわ湖岸に近い小津浜遺跡、寺中遺跡などから下之郷へ移ってきました。それも150年〜200年で衰退して直ぐ近くの播磨田東遺跡やニノ畦・横枕遺跡などの環濠集落へ移っていきます。
弥生中期後半ごろには、北部九州との交流が進み中国文明が流入したことにより、それまでの自然発生的で原始的な集落構造から脱却し、広域的な集団関係が成立していきます。そのような大きな社会変動の中で下之郷遺跡の大型環濠集落が出現したと考えられます。
各地の大型環濠集落を見ていると、そのような集落には大きな建物があり、首長がいたり交易が行われた場所でもあり、その地域の政治・経済拠点となっていました。小さなムラが大きなムラになり、それが統合されてクニになっていき、「漢書地理志」に書かれている「百余国・・」が、「魏志倭人伝」の30国に統合される前段階の時代です。
このような時代背景から、下之郷遺跡は近江を代表するクニの中核であったと考えられます。
【遺構・遺物から見えてくること】
ただ、それだけにしては説明のつかないことが多々あります。
環濠内部には掘立柱建物、壁立式建物しかなく、しかもかなり大型の建物が多い、また、日本でも大きな拠点集落にしかない独立棟持柱付き建物がありました。環濠も多重で規模の大きいもので、出入り口は厳重に守られています。環濠の外側にも居住域が見つかっており、それらを囲むもっと大きい外周環濠が巡っていた可能性もあります。
丁度この時期は、北部九州との交易が進展し鉄を始めとする大陸系文物が急速に流入してきて、大きな物流変革を生じ始めた頃です。 このようなことを考え合わせると、それまで野洲川下流域に住んでいた在地の首長たちが共同して巨大な集落を造り、内部に環濠に囲まれた交易センター、物流ネットワークのセンターを設けたのではないかと思われます。
下之郷遺跡からは祭祀に用いたと思われる人面を模したココナツ容器が見つかっています。他の遺跡では見られないもので、南方系の品物です。たまたま流れ着くようなものではなく、南方の商人がここまでやってきたことも考えられます。
また、他ではあまり見られない朝鮮に起源を持つ壁立建物が多く見つかっているのも特徴です。環濠内外から見つかっていますが、環濠内部に多くあります。朝鮮系の渡来人がかたまって住んでいたのかも知れません。
下之郷遺跡は、野洲川下流域を代表する拠点集落でだけではなく、近江南部あるいは近畿中部圏の交易センターであったと推測されます。
弥生時代中期後半から後期に移る大きな社会変革の過渡期を示すのが下之郷遺跡なのです。
【もっと広くこの地域を見てみると】
下之郷遺跡の歴史的意義を考察するために、当時の野洲川下流域全体を見てみます。
びわ湖東岸は、水稲農耕に適した土地で田の開発が進みお米の生産量が増えます。その結果、人口も増えそれが力になります(くわしくは「状況証拠から見えてくる近畿政権の中核:近江」を参照)。
下之郷遺跡が栄える頃、この地特有の近江型土器が成立し、後期にかけて各地に拡散していきます(くわしくは「近江土器が語る弥生の近江商人?」を参照)。 近畿にとどまらず、山陰、北陸、東海、紀伊などに野洲川下流域の人たちの活動の痕跡が見られるのです。
また、近畿では他所に先駆けて大々的に玉作りを始めます。玉の原石がない所で、原石を取り寄せ、加工技術を入手し、祭祀や権威威示に必要な玉を作るのです。また、玉は貨幣の役割もしていました(くわしくは「玉つくりの一大生産地」を参照)。
これらの事実は、野洲川下流域にあったクニの力を示すもので、その拠点が下之郷遺跡なのです。
下之郷遺跡と弥生後期に近畿の中核となる伊勢遺跡を直接結び付ける証拠はありませんが、その基盤を下之郷遺跡が代表する野洲川下流域の人たちが作り上げたと考えられます。
まとめ
ほぼ等間隔に並周する環濠が集落を取り囲み、内部には掘立柱建物、壁立ち式建物ばかりが方向を合わせて並んでいました。環濠からは多種多様な遺物が見つかる「弥生のタイムカプセル」です。近江南部の拠点集落であり、政治・経済の中心であったようです。弥生後期の伊勢遺跡につながる力を蓄えて行きました。

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