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野洲川下流域の弥生遺跡 > 野洲川下流域は玉つくりの一大生産地

 野洲川下流域は玉つくりの一大生産地
山陰や北陸の原石を産出する土地に多くの玉つくり遺跡がありますが、実は、野洲川下流域も玉製品の一大生産地でした。当時の玉つくり遺跡の数は、弥生時代では最多の佐渡に匹敵する多さです。原石もない所でどうして? という疑問が出てきますが、これこそが、この地の力を示すものです。
弥生時代の玉つくり遺跡
勾玉(まがたま)や管玉(くだたま)、丸玉などの玉類は、縄文時代に始まり、弥生時代から古墳時代にかけて日本全国で作られていたことが知られています。縄文時代の玉つくりの遺跡はそれほど多くなく、使っている玉も柔らかい軟玉です。
弥生時代に入ると玉つくり遺跡が増え、材料も色とりどりの硬い石が用いられるようになりました。原石は、碧玉(へきぎょく:青い石)、鉄石英(てつせきえい:赤い石)、翡翠(ひすい;緑色)、それからメノウなどです。原石の供給地は北海道や、佐渡、北陸、山陰地方で、玉つくりの遺跡も原石の出る近傍が多いようですが、ここから日本各地に向かって供給されていきます。
国史跡に指定された玉つくり遺跡はいくつかあります。弥生時代では、新潟の佐渡玉作遺跡群が有名で、当時の最大の玉類生産地でした。古墳時代に入ると、島根県の出雲玉つくり工房が玉の多量生産をしていたようで、古文書にも記されています。
野洲川下流域の玉つくり遺跡
【近江の玉つくり遺跡の分布】
近江でも弥生時代前期の終わり頃に玉つくりが始まり、中期には各地で行われていたことが確認されています。弥生前期〜中期の初め、近畿では近江にしか玉つくり集落はありませんでした。いち早く、この地で玉つくりが始まっているのです。
その後、古墳時代にかけても玉つくりが行われていました。
草津市の烏丸遺跡では、弥生中期が始まった頃の玉つくり遺跡が発見されており、近畿全般を見ても早い時期の玉つくり遺跡です。
弥生時代の近江における玉つくり関連遺跡の分布を示します。近江で30ヶ所程の遺跡が見つかっています。
玉つくり遺跡と言っても、玉つくりの工房が見つかるのは少なく、原石や作りかけの未製品、玉つくり工具などが出土している遺跡を示したものです。(玉製品のみが出土した遺跡は含まない)びわ湖湖岸平野部のあちらこちらに分布していますが、野洲川下流域に集中しているのが判ります。
もう一つ、この地の玉つくりの特徴は、長い期間にわたって玉を作っていたことです。
【野洲川下流域の玉つくり工房】
野洲川下流域で玉つくり工房と確認されるのは、野洲市の市三宅東 遺跡と草津市の烏丸崎遺跡の2ヶ所です。
市三宅東遺跡では、主に管玉を製作した円形竪穴住居が3棟見つ かっています。ここでは、管玉の製作中にでた研ぎ汁が沈殿した ピットや玉を磨くための金剛砂(こんごうしゃ)が出土しています。
また、工房の床や埋土中より碧玉の破片大小が百数十点発見 されています。
玉つくりの工程を見てみると、原石を割ったり、板状にするための 石斧(せきふ)、石鑿(いしのみ)が必要です。次いで、板状の石を 石鋸(いしのこ)で管玉の幅に切っていきます。これを荒砥石(としい)、中砥石を使って角をとり丸棒状に研磨していきます。[本節最後に図解しています] その後、石錐(いしきり)で中央に穴をあけて筒状にします。
それを仕上げ玉砥石を使って管玉に仕上げます。これら一式の道具がこの遺跡から見つかっており、貴重な発見でした。
近江の玉造り遺跡

市三宅東玉造り遺跡
 市三宅東遺跡で見つかった管玉の製作過程と、製作に使う工具の砥石(といし)と石鋸(いしのこ)を示します。
玉制作過程
玉類の製作過程(市三宅東遺跡)【野洲市教委】
玉制作過程
製作工具(市三宅東遺跡)【野洲市教委】

草津市の烏丸崎遺跡でも、少なくとも2棟の竪穴住居で玉つくりをしていたことが判っています。
市三宅東遺跡と同じように玉つくりの道具や作りかけの未製品、原石を割ったり削ったりした時の破片、研磨材として使う細砂粒、研磨汁が詰まったピットが見つかっています。
市三宅東遺跡と違うのは、ここの工房からは完成品も出ており、管により細い穴をあけるためのメノウの石針が見つかっています。
玉類原石と製作過程
玉類原石と製作過程(烏丸崎遺跡)【滋賀県教委】
玉の腕輪
出土した玉の腕輪(烏丸崎遺跡)【滋賀県教委】

また、玉つくり工房の近くにある方形周溝墓の一つより、色鮮やかな89点の玉類が出土しています。ヒスイ製の小玉や勾玉、碧玉製の管玉などで、出土したときのまとまり具合から復元すると2連の腕輪になりました。
この腕輪を蛍光X線分析したところ、工房で見つかった原石と同じ産地である可能性が高いことが判りました。烏丸崎遺跡で200基以上もの方形周溝墓見つかっており、副葬品をここの玉つくり工房で作っていたようです。
【なぜ多くの玉つくり工房が?】
野洲川下流域の玉つくり遺跡の密度は、原石を産出する北陸から山陰にかけての地域に近い密度です。
なぜ原石を持たない野洲川下流域でこれだけ多くの玉つくり遺跡があるのでしょうか? 玉類は、物々交換のための貴重な品物であると同時に、弥生中期にもなり身分の違いが出てくると、権威を示すための威儀具でもありました。原石は流通物資の一つになっていたのでしょうが、遠く離れた原石地域から多量の石材を得ることができるのは、物を引き寄せる力のある拠点集落、大きな力のある交易拠点がここに存在していたからだ、と推測されます。
玉つくり工具にしてもそうです。石錐用のサヌカイトや研磨用の金剛砂は二上山から、石鋸用の紅簾片岩(こうれんへんがん)は淡路島や紀ノ川流域から運んでくる必要があります。広域の交易ルートがあり、その中継・交換拠点がここにあったと思われます。
【玉つくりは難しいのか?】
野洲川下流域でこれだけ多くの玉つくり遺跡があるということは、原石と工具があれば玉つくり自体はそれほど難しい技術ではなさそうです。
しかし、工具を作ることは相当レベルの高い技術を必要としていました。とくに直径1mmや2mmの小さな穴を穿つメノウ製石針は細く割るだけではなく、面とり加工までしてあります。このような微細加工のメノウ製石針が1つの工房から1300本以上も出ているのです。
野洲川下流域の多くの遺跡で玉つくり関連の遺物が見つかるということは、工具さえ作れたら、後は根気よく手を動かすだけの作業だったようです。原石を入手し工具を作り、それを野洲川下流域の多くの集落に渡して管玉や小玉を作らせる、そのような元締めが居たのでしょう。
工具作りの技術もさることながら、おそらく原石のとり合いがあった当時、安定的に原石を入手することが難しく重要であったのではないでしょうか。 弥生前期〜中期の初め、近畿では近江にしか玉つくり集落はありませんでした。いち早く玉つくりに目を向け、製作技術を、おそらく北陸から技術を導入してシステム化した、力のある弥生人がここにいたのです。
作った玉製品はどうしていた
烏丸崎遺跡の方形周溝墓より、そこで作った玉を使った腕輪が出土しています。長が権威を示すために自家用に玉を作っていたのは確かです。
しかし、遺跡数が多い割には玉製品が見つかっていません。まとまった製品として見つかるのは、あと、伊勢遺跡だけです。ということは、玉製品は交易のために作っていたとも考えられます。物々交換の世界では、貝、サンゴ、玉などが貨幣代わりに使われており、貴重な交易品でした。このように考えると、当時の玉作り工房は、さしずめ現代の造幣局に当ります。
作った玉は、ここでの交易に使ったり、遠方に出かけて物々交換で他の品物を得ていたのでしょう。
まとめ
野洲川下流域は、原石を産出しないが、一大玉製品の産地でした。多くの遺跡で、玉つくりの痕跡を残しており、多くの人が玉つくりに従事していたようです。
原石を入手する強い政治力と経済力を持ち、玉つくりに必要な道具を作る技術を保有していました。多くの弥生遺跡の中でもユニークな存在だったと思います。
【付録】管玉の作り方
石器しかない当時、どのようにして玉製品を作ったのでしょう。 野洲市の市三宅東遺跡で玉作り工房が発見されたのを記念して野洲ロータリークラブが作成した「古代と現代の同居」〜玉作りの村−市三宅東遺跡− に記載されている、管玉の作り方を紹介します。
玉の腕輪


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