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 伊勢遺跡はミステリー  【投稿No.田口201411】【田口201504補】
伊勢遺跡は、他の弥生遺跡に比べて不思議がいっぱいです。これらは大きなミステリーなのです。
この不思議さは、他の遺跡と比べてみることにより、それが際立って見えてきます。
はじめに
このホームページの「伊勢遺跡の特徴」で書かれているように、他の同時代の弥生遺跡に比べて伊勢遺跡はユニークさがいっぱいです。これらは伊勢遺跡のミステリーなのです。
 ・大型建物が集中して見つかっている
 ・それらの建物が、円と方形の組み合わせという特異な配置になっている
 ・当時としては最先端の、中国伝来の建築技術が使われている
 ・それらの建物群の周辺や溝からは日常品がほとんど出土しない
 ・建物形式と心柱の存在 − 伊勢神宮との奇妙な一致点
 ・日本で初めて焼レンガを使った建物がここにある
 ・突然現れて突如廃絶される遺跡
これらの不思議を、私見も加えもう少し掘り下げたり、別の切り口で見てみましょう。

大型建物がなぜこれほど集中しているのか?
考古学者が「大型建物」というとき、単に床面積の広い建物を指すのではなさそうです。
床面積がある程度以上で、太い柱を使い、荘厳な外観(高床式、独立棟持柱など)を有する建物を指すようです。
守山市の場合、床面積が40u程度以上の、太い柱の建物を「大型建物」と呼んでいます。
下之郷遺跡でも床面積が40u以上の高床式建物が数棟見つかっていますが、考古学者は「大型建物」として取り上げてくれないようです。
以後、荘厳重厚な大きな建物を「大型建物」と呼ぶことにします。 伊勢遺跡と下之郷遺跡の高床式建物の柱跡を比べてみます。

伊勢遺跡の祭殿跡
伊勢遺跡の祭殿跡
下之郷遺跡の建物跡
下之郷遺跡の高床式建物跡

柱穴の大きさと柱間隔に顕著な差があることが判ります。
伊勢遺跡の柱穴は幅が約0.8m、長さは約1m〜2m超えもあります。穴の中に柱根が残っているものもありました。伊勢遺跡では、約1.8m間隔で直径35〜40cmの柱が立ち並んでおり、一方、下之郷遺跡では約2.3m間隔で直径20〜30cmの柱列となっています。比べて見たときの荘厳さには大きな違いがあることは明らかです。
話は少しそれますが、柱穴の図より判るもう一つの特徴は、建物の建替えです。下之郷遺跡では幾つもの柱穴が出ており、同じ場所で何回も建替えられています。それに比べ、伊勢遺跡では1回だけ建てられただけで、その役目を終えて行きます。これも伊勢遺跡の役割を考える上で大きなヒントとなります。ちなみに、大阪の池上曽根遺跡の超大型建物も同じ場所で何回も建替えられています。
話を戻しますと、伊勢遺跡では必要以上に太い柱を多数使い荘厳さを演出しているようです。
このような荘厳な大型建物が、伊勢遺跡では10数棟も見つかっています。
では、他の弥生遺跡ではどうでしょうか?
弥生時代の大型遺跡としてよく話題に挙がる、池上曽根遺跡では特大の独立棟持柱建物が2棟、奈良の唐古鍵遺跡でも大型建物は2棟のようです。その他の遺跡でもせいぜい、1棟〜3棟です。それらに比べると、伊勢遺跡は12棟と、驚くほど多数の大型建物が出てきます。

さらに、伊勢遺跡に隣接する下長遺跡でも同時代の祭殿が1棟、下鈎遺跡で3〜4棟、伊勢型の祭殿が見つかっています。実に2.5km四方の地域に16〜17棟もの大型建物が集中して見つかっているのです。これが、大きなミステリーなのです。
他の遺跡で荘厳な大型建物が1〜2棟というのが普通なのかもしれません。祭殿や権力者が集う儀式の場は何棟も要るはずがありません。クニのインフラとしてはその程度の数で良いはずです。
伊勢遺跡の方が異常なのです。ここに伊勢遺跡が何か? を解く鍵があると考えます。

他では見られぬ特徴的な建物配列
建物配列 伊勢遺跡では直径約220mの円周上に祭殿が6棟も発掘されており、中央には主殿を中心に南北に向きを合わせて建物がL字型に配列されています。中央部の建物の周辺には方形を意識した柵が巡らされており、主殿を中心にした左右対称配列の建物が存在した可能性も捨てられません。  (右の図は建物の大きさを強調して大きく描いています)
円周上に祭殿を配置するだけではなく、等間隔に、しかも建物の正面を円の中心に向けて建てています。中央部の方形区画も南北方向に軸を合わせて建物配置をしています。
これらの点に、非常に高度な計画性を見ることができます。
円周に物を配列することは、イギリスのストーンヘンジの巨石列や日本の縄文遺跡(秋田県の大湯環状列石)でも小石を円周状に敷きつめた遺構が見つかっています。
このように石器時代〜縄文時代から既に「円周」を意識した特徴的な配列遺構があります。
でも、円周上に等間隔に建物を配列する遺跡はここだけではないでしょうか? なぜ? という大きなミステリーです。
さらに方形に建物を配置する遺構は、弥生時代としてはここだけではないでしょうか。吉野ヶ里遺跡などでも建物配列まちまちで、柵も方形にはなっていません。日本では、古墳時代になると建物が方形に配列されるようになり、中国の影響を受けて、都の建物配列は、方形、左右対称となっていきます。
その方形配列の思想が既に伊勢遺跡で見られるのです。 「円周」と「方形」の2つの建物配列の組合せが大きなミステリーなのです。
とくに近世の「円卓会議」のように、強力な国々の会議では序列を表す配置を避け、円周状に座席を配置することがあります。伊勢遺跡の円周状配列もこのような意識があったのかも知れません。

日常品がほとんど出土しない〜〜人の気配がない
伊勢遺跡で新たな発見があったとき、新聞紙上に華々しい成果が紹介され、講演会などでも大型建物や建築技術の素晴らしさについて語られることが多いです。
でも、マスコミで語られることはあまりありませんが、考古学者が伊勢遺跡について語るとき、「出土品がほとんどない」ことに頭を悩ます・・というミステリーがあります。
下之郷遺跡の環濠からおびただしい遺物が出土していることと比べると、伊勢遺跡の溝からは、ほとんど遺物が出てきません。祭祀空間の周辺や建物跡からはほとんど遺物が出てきません。人の気配がないのです。

伊勢遺跡の大溝
伊勢遺跡の大溝
下之郷遺跡の環濠
下之郷遺跡の環濠

では、人がいなかったのかと言うとそうではありません。弥生時代、遺跡の南側には大きな川が流れていました。大型建物が立ち並ぶ空間からだいぶ西側に離れた川の肩口からは多量の土器が出てきます。大勢の人たちがいたことが判ります。この辺りは、当時のゴミ捨て場で、生ゴミや木器などの有機物は下流に流れたり腐って消えてしまったりして、土器だけが残ったのでしょう。

川の土器
遺跡の外れの川の肩口で見つかった土器

また、これだけの大きな建物を建てるためには大勢の人たちが長期にわたり働いていたはずです。
そこでいろいろなゴミが出たことでしょう。しかし、そのゴミをすぐ横の溝に捨てるようなことはなかったようです。下之郷遺跡の環濠がゴミ捨て場としても使われていたことを考えると、大きな違いです。すなわち、建設当初から、ここは聖なる空間として「ゴミを捨てない」ように管理していたと考えられます。
もうひとつ、不思議なことがあります。伊勢遺跡では、当時の井戸跡が出てこないのです。下之郷遺跡では、環濠内の建物跡周辺から多くの井戸跡が見つかっています。 伊勢遺跡の祭祀空間に井戸がないということは、人々が日常的に生活する場ではなかったものと思われます。
大型建物が立ち並びながらも人の気配がなく、清潔に管理されていたことから、ここは聖なる祭祀空間と考えられるようになりました。

大型建物の「心柱」は聖なる建物のシンボル? ――伊勢神宮との共通性
円周上に配列された祭殿と方形区画の一部の建物には中央に「心柱」があります。このことはあまり話題にされないのですが、私は大きなミステリーだと考えています。
祭殿は独立棟持柱を有し、太い柱が立ち並ぶ壮麗な建物です。それらの建物は伊勢神宮の伊勢神明造りとよく似た形式で、大きさもほとんど同じです。他の弥生遺跡ではあまり見られない独特の建物形式で、伊勢町の地名にも因んで「伊勢型建物」と呼ばれることもあります。
この伊勢型の建物は近くの下長遺跡や下鈎遺跡からも見つかっています。九州地方では独立棟持柱を持つ建物はあまりありませんが近畿地方ではちらほら見つかっています。
しかし、伊勢遺跡の祭殿に限って認められるのが、建物中央の「心柱」の存在です。同じ伊勢型のといっても、同時代の下長遺跡、下鈎遺跡の祭殿では心柱がありません。

心柱溝
中央が心柱
心柱の柱穴
心柱の柱穴

伊勢遺跡の祭殿では独立棟持ち柱で棟を支えており、この規模の大きさの建物では棟を支えるために建物の中央に柱を設ける必要はないと思われます。にもかかわらず、多くの祭殿に心柱があるのです。
当時の柱が地中に残されていたのですが、心柱は他の柱より細いのです。他の柱が直径35cm〜40cmの太さに対し、心柱は20cmくらいしかありません。また、その柱穴の深さも他の柱より浅くなっています。したがって、心柱が床を突き抜けて棟を支えていたかどうかは判りません。
伊勢神宮 話は変わりますが、伊勢神宮の本殿は、伊勢遺跡の祭殿と同じ構造の独立棟持柱付き建物で、大きさもよく似ています。同じ「伊勢」であることから、考古学者の間で、その関連性が話題になっています。
その伊勢神宮の本殿には、中央に「心柱」(「心御柱」と呼ばれています)があるのです。伊勢遺跡の祭殿と建物構造、大きさだけでなく「心柱」の存在という点でも、奇妙な一致点があります。
伊勢神宮の心柱は「人の目には触れてはならない」ものであり、あまり語られることはありません。
その心柱は短く、床まで届いていないようで、聖なるシンボリックな存在のようです。遷宮した後、建物は解体され更地になりますが(古殿地)、心柱は引き抜かれることなく、更地になった中央辺りに小さな小屋に囲われて、外からは見えないように保護されています。
伊勢遺跡の心柱も、棟を支えるという実務上の意味合いはないようで、聖なる建物のシンボルとして存在するのかもしれません。そうだとしたら、ここにも伊勢神宮との一致点が出てきます。これが、後世の伊勢神宮に引き継がれていくのでしょうか? 今のところ、両者の直接的なつながりは判っていませんが興味深いことです。
因みに、出雲大社には太い心柱が中央に存在して、大きな屋根を支えています。この心柱は隠すようなものではなく、テレビや写真などで公開されています。歴史的にも関係の深い伊勢神宮と出雲大社ですが、心柱に関しては大きな違いがあります。
伊勢遺跡の全ての建物に心柱があるのかというと、そうでもありません。冒頭にも書きましたが、方形区画の一部の建物には心柱は見られません。主殿(SB-1)は伊勢遺跡の中でも一番大きな高床式建物ですが、独立棟持柱は無く、心柱もありません。
主殿の隣の副屋(SB-2)は平地式の建物で独立棟持柱があります。この建物には心柱があるのです。その手前の祭殿(SB-3)は円周上にある祭殿と大きさ・形もよく似た建物で、独立棟持柱があります。しかし残念なことに中心部は土地の境界にあたり、発掘されていないので心柱は確認されていません。その手前に小さいながら高床式で独立棟持柱を持つ小型倉庫と呼ばれている建物があり、そこには心柱があります。
どうやら建物の形式と用途によって心柱の有無が決まるようです。
先ほど近隣にある同時代の下長遺跡、下鈎遺跡の祭殿に触れましたが、下長遺跡は古墳時代まで続き、その時代にも伊勢型の祭殿が建てられます。この建物には、伊勢遺跡と同時代の祭殿には見られなかった心柱があるのです。
すなわち、伊勢遺跡群として同時期に作られた祭殿には心柱が無く、伊勢遺跡が廃絶された後に作られた祭殿には心柱がある。どうも、心柱を引き継いだように見えます。心柱のある祭殿には何らかの意味があるのでしょう。

異形の祭殿
円周上近くに1棟だけ不思議な祭殿があります。
直径が約220mの円周上に祭殿6棟が、規則的に配置されているのが見つかっています(本ホームページの「円周配列の建物」を参照)。しかし、もう1棟の祭殿は円周上からは少しだけ離れて配置されています。(2項の地図を参照、右下が異形の祭殿)
この建物が、他の祭殿とはいろいろな意味において異なる「異形の祭殿」なのです。
床面積はほぼ同じですが、6棟の祭殿と異なる点は次に示すとおりです。
 ・屋外の独立棟持ち柱に対し 屋内棟持ち柱となっている
 ・柱の構成が 1間×5間 に対し 1間×3間となっている
 ・心柱がない
 ・円周配列より少し外れている   
 ・円周の中心に面せず、異なる方向に面している
 ・区画溝の外側に存在している

6棟の祭殿
6棟の祭殿
異形の祭殿
異形の祭殿

同時代に、ここだけ大きな違いのある建物、それも立派な祭殿を建てたのはなぜでしょうか? 何かを意識して建てたに違いありません。
区画溝の外側、想像をたくましくすれば、結界の外側にある異形の祭殿ということになります。
云ってみれば、陰と陽、精霊の世界と悪霊の世界またはこの世とあの世・・のような観念がある建物かもしれません。上で述べた聖なる心柱がないのもそのヒントになりそうです。
どのように使われたのかは判りませんが、悪霊を鎮めるため…などの特定の目的をもって建てられたのではないでしょうか。当時の人たちの精神世界が読み解けるかも知れません。

日本最古の焼レンガを使った超大型竪穴建物 ――その源流は?
建物配列 遺跡の北東部にある大型竪穴建物(本ホームページ:「伊勢遺跡/特殊な竪穴建物」 を参照下さい)は当時の日本の大型建物の中でも群を抜いて大きな建物で、一辺13.6mの方形、床面積は185uを誇ります。
大阪の池上曽根遺跡で復元されている、これも「超大型建物」と表現される独立棟持柱付き建物が約135uの広さです。復元された建物をご覧になった方も多いと思いますが、そばによると圧倒される大きさです。これをも凌ぐ大きさの建物が伊勢遺跡にあったのです。
この建物構造は、屋内に棟持ち柱を持つ「入母屋風」建物と想定され、これまで類例のない造りです。周辺から幅30〜40cmの炭化板材が多く見つかっており、板壁で囲われた立派な建物だったようです。
建物の大きさ、構造よりもさらに驚かされるのが優れた建築技術です。
壁際には、掘り下げた土の側面の補強か湿気防止か、板状の焼レンガが縦方向に置いてあります。
また床には良質な粘土を焼き固めた、中国伝来の「紅焼土」と呼ばれる建築技術が用いられています。


焼レンガ
掘り出された焼レンガ
レンガ1(左)
  幅42cm、高さ32cm、幅11cm

レンガ2(右)
  幅48cm、高さ33cm、幅13cm

平面調査で、焼レンガ状の物は何ヶ所かで確認されていますが、掘り出されたレンガはこの2個です。床面には崩落時に壊れたとみられる断片が幾つもありました。レンガの各面には成形された個所が見られることと、全体の色から強力な火で焼かれたものとみられ、意図的に焼成したレンガと考えられます。
この焼レンガの発見は大きな驚きです。大陸伝来の最新建築技術、磚(せん)と呼ばれる焼レンガが伊勢遺跡の大型竪穴建物に使われており、発見当時の新聞には「日本最古の焼レンガ」とか「定説500年さかのぼる」などとの見出しで書かれています。

焼レンガはどこから?

レンガの歴史は、紀元前数千年前から建築材料として使われていたようです。メソポタミア文明では日干しレンガや焼レンガが用いられ、エジプトや地中海、インド、中国に伝わっていったと考えられています。
というのが定説ですが、考古学者の安田喜憲さんが調査された6300年前の中国長江中流域の城頭山遺跡で焼成レンガが祭政殿の基壇や前面の広い道路に多量に使われているのが見つかっています。 (「長江文明の探究」梅原猛・安田喜憲共著 新思想社)
どうも、メソポタミアより古くからレンガを使っていたようです。後述しますが当時の中国には粘土を焼く「紅焼土」という建築技術があり、焼成レンガはそこから展開可能と考えられるのです。
では、いつ日本に伝えられたのか?
これまでは、仏教の伝来とともにレンガが日本に伝えられ、白鳳時代7世紀後半に寺院の基壇に使われたのが最古のレンガと言われていました。伊勢遺跡の焼レンガの発見で、これが2世紀にまでさかのぼったのです。
考古学者の金関 恕さんは「中国では漢代の宮殿などに磚(せん)と呼ばれるれんがが使われている。前漢の武帝が今の平壌付近に置いた楽浪郡(紀元前108〜紀元313年)の遺跡からも磚が見つかっており、楽浪郡系の技術者が日本に来て、れんが製造技術を指導した可能性がある」とコメントされています。
紅焼土 もう一つ、伊勢遺跡では「紅焼土」と呼ばれる建築技術が用いられています。
この技術は、中国長江流域の古い遺跡の住居で見られます。湿気のある地面に木を敷いて火をかけ地面を焼きます。地面は乾燥し固まり、その床の上に建物を建てるのです。焼くと土が赤く発色するので「紅焼土」と呼ばれているのでしょう。平坦で堅固な床を作って地盤の沈下と湿気を防ぐ、日本では最新の技術が伊勢遺跡に使われているのです。
長江流域から伝わったと思われる2つの建築技術について書きましたが、この地は稲作の源流とも言われています。数千年前、ここの人たちが北方民族の侵略と激しい気候変動を受けて各地に逃れ、一部の人はボートピープルとなって日本に漂着し稲作を伝えたと、安田さんは書いておられます。
ここで、稲作と2つの建築技術が長江流域で結びつきます。
話は飛躍しますが、日本に逃れてきた長江の人たちの末裔が、野洲川下流域に来て、大型竪穴建物に関わった、という考えです。焼レンガは中国⇒朝鮮楽浪郡⇒日本 ではなく、東シナ海を渡って直接日本に、それも伊勢遺跡に伝わり、大型竪穴建物の造営に用いられた、という伝播ルートです。

早々と消え去る大型竪穴建物

いずれにせよ、最先端の建築技術を伊勢遺跡で使ったということは、それだけの意義のある重要な施設、当時の一つの国を超えた存在を意味する施設でしょう。
この大型竪穴建物は、伊勢遺跡の早い段階で建てられ、円周上の祭殿が次々と造営される時期には、早々と消え去っていきます。どうしたのでしょ? これも大きなミステリーです。
この建物が担っていた役割は、その後、どうなったのでしょうか? 建物配列
一つの考え方は、中央部の方形区画に移されたということです。ここの建物は竪穴式ではなく、高床式の主殿とそれに付随する建物群です。主殿は伊勢遺跡では2番目大きな建物であり、その可能性は充分にあると考えます。
そうするとここでまた別の疑問が湧いてきます。
伊勢遺跡に先行する下之郷遺跡では多数の掘立柱建物があり、独立棟持柱付き建物も存在しています。この建築技術が引き継がれているに違いないと思うのですが、では、その重要な建物を最初から
なぜ掘立柱建物にしなかったのか? ということです。
下之郷遺跡では南方系の掘立柱建物と、中国・朝鮮系の壁立ち建物が併存しています。この地には、南方系の人と中国系の人が居たのでしょう。伊勢遺跡で大型建物を建てる時、先ず、中国系の人が中国伝来の最新建築技術で壁立ち式に似た壁付き竪穴建物を建てた・・・。その後、グランドデザインにしたがって、円周上及び中央部に建物を造営するときに、勢力関係のためなのか、掘立柱建物に変えた、という見方です。
ともかく、この大型竪穴建物は、建物自体や焼レンガについてミステリーだらけです。

奈良に伝わったレンガはどんなもの?

伊勢遺跡の焼レンガは奈良時代に使われたレンガの先駆けとなったのでしょうか?
奈良文化財研究所のブログ(消えた煉瓦の行方)には;、
「奈良時代前半、平城宮の中心部である大極殿の前面には、煉瓦の積まれた巨大な壁が、高さ約2m、幅約100mにもわたり築かれていました。(中略)そのために使用された磚の数は、約12,000個という膨大な量に及びます。(後略)」と書いてあります。発掘されたレンガのサイズは、約30cm×15cm×8cmだそうです。
レンガのサイズは、伊勢遺跡で見つかったものとはた大分違っているし、年数も大きく離れており、両者には関連はなさそうに思えます。

万里の長城のレンガとは関係あるの?

レンガ造りの建造物と言えば、万里の長城には床や擁壁にレンガが使われています。舞鶴にある赤れんが博物館では中国より入手した長城れんがが展示されています。
長城れんがには規格品が2種類あって、縦約40cm、横約20cm、厚さ約10cmの長方形のものと長城の床に使われていた37cm四方、厚さ12cmの正方形れんが、だそうです。また、インターネットによれば、40cm×30cmのレンガもあるようです。この辺りのレンガサイズは伊勢遺跡から見つかった焼レンガと似通っており、長城れんがとの関連が推定されます。
万里の長城は伊勢遺跡を数世紀さかのぼる秦の始皇帝の時代に築き始めたものですが、明の時代(14世紀〜17世紀)に、大規模にレンガ作りの長城を建造しています。赤れんが博物館にある長城れんがは明の時代のものですし、秦の時代の長城は自然石や土を固めたものと言われています。
伊勢遺跡とサイズが似ているだけで、両者の関連性を推定するのは難しそうです。

魏志倭人伝の「30余国」とは次元の異なる遺構?
伊勢遺跡の東半分に大型建物が立ち並ぶ祭祀空間がありますが、人々が日常的に活動していた痕跡はありません。祭祀空間の西側には現在の伊勢町の集落があり、その下にどのような遺構が眠っているかは判りません。
ただ、現集落の周辺から竪穴住居や人々が暮らしていた痕跡があり、弥生時代の集落が現集落の下にあった可能性があります。拠点集落の首長が聖なる水を得るために用いたと思われる浄水施設が見つかっていることから、そこは拠点となる集落であったかもしれません。
ただ、浄水施設は祭祀空間での祭りごとに使用された可能性もあります。
伊勢遺跡は、弥生時代の古くからの集落が大きく栄えて拠点集落あるいはクニになっていくのではなく、新しい土地にいきなり祭祀空間が建設されるのです。
これまで述べてきたことと考え合わせると、伊勢遺跡は、大きな祭祀空間とそれを支え維持管理する小さな集落から成り立っていた可能性があります。それは、複数の巨大な勢力(クニ)が、ある政治目的をもって共同で建設し、そこで何かを合議した巨大祭祀空間と言えないでしょうか。
荘厳な建物が何棟も円周上に建てられ、短期で役目を終えた・・・ということもすっきりと説明が付きます。
そうすると、そこは人々が住み生業を行い首長が政治と祭りごとを行っていたクニではなく、強力なクニが共同でおこなう祭祀専用のための施設ということになります。すなわち、魏志倭人伝に書かれた「30余国」の一つではなく、次元の異なる空間となります。
もしそうなら、野洲川下流域を支配していたクニはどこにあったのでしょうか?
文責:田口 一宏 

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