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こんなに凄い遺跡だった > 日本最小の銅鐸から最大の銅鐸まで

 日本最小の銅鐸から最大の銅鐸まで
野洲川下流域では、銅鐸祭祀が継続して行われていました。最終的には、大岩山に銅鐸を埋納して、銅鐸祭祀は終わりました。この地域の銅鐸、青銅器についてみていきます。
野洲川下流域の銅鐸・青銅器の特徴
野洲市の大岩山では、24個の銅鐸(どうたく)が出土しており、一ヶ所から見つかった銅鐸の数としては、島根県の加茂岩倉遺跡の39個に次いで多い数です。大岩山銅鐸には、日本最大の銅鐸が含まれています。
また、栗東市の下鈎遺跡からは日本最小の銅鐸が見つかっています。
そのほか近江南部での銅鐸、青銅器に関して特徴的なことは;
・もっとも古い銅鐸から新しい銅鐸まで、100〜150年にわたるいろいろな銅鐸が出ている
・ここで銅鐸の形式の統合が行われた
・銅鐸祭祀の最後を飾って大岩山に多量に埋納された
・銅剣が出土する最東地点である
など、銅鐸文化の歴史を見ることができます。
大岩山 日本最大の銅鐸
大岩山銅鐸 弥生時代を特徴付ける金属器として、銅矛(どうほこ)、銅剣、銅戈(どうか)、銅鐸などがあります。地域と時代によって何を祭祀に用いていたかが異なりますが、野洲川下流域では、銅鐸の祭祀が弥生時代を通して行われていました。 明治14年(1881年)に野洲市小篠原の山の中で遊んでいた子供によって、14個の銅鐸が偶然見つかりました。
また、昭和37年(1962年)、東海道新幹線の工事に関連して10個の銅鐸が見つかりました。平成8年(1996年)加茂岩倉遺跡で39個の銅鐸が出土するまでは、1ヶ所で発見された銅鐸の数としては、日本最多でした。また、総長135cmと、群を抜いて大きな銅鐸が見つかっており、日本最大の銅鐸となります。
銅鐸は入れ子にし、向きを揃えて、聖なる三上山の麓に埋納されており、弥生時代の幕引きの祭祀が行われたと考えられています。
これらの銅鐸の特徴は、大福型、近畿式、三遠式などいろいろな形式のものがあること、また製作時期についても西暦50年ごろのものから西暦150〜200年頃のものまでいろいろな時代の銅鐸があることです。銅鐸表面に付けられている文様も、流水紋のものが1個ありました。バライエティに富んだ銅鐸の種類から考えると、びわ湖周辺の拠点集落それぞれが保有し、祭祀を行っていた銅鐸を持ち寄って、埋納祭祀をおこなったと考えられています。
埋納場所も、明治と昭和に発見された場所が50mほど離れており、2回に分けて埋納されたと解釈されます。
ただ、昭和に見つかった流水紋銅鐸1個はさらに50m離れた所から見つかっており、3回埋納説もあります。
銅鐸の用途ですが、主として弥生初期末から中期につくられた小〜中型の銅鐸は音を鳴らして「聞く銅鐸」で、弥生後期の中〜大型銅鐸は飾って「見る銅鐸」と言われています。すなわち銅鐸の用途は、中期と後期で大きく異なっていました。
この観点で大岩山の銅鐸を見ると、主に中〜大型の「見る銅鐸」になります。
大岩山に銅鐸を埋納した後は、鏡が祭祀に用いられるようになります。その後は、銅鐸は造られなくなり、大岩山の最大の銅鐸は、銅鐸の歴史では最新でかつ最後の銅鐸になります。
下鈎遺跡 日本最小の銅鐸
栗東市の下鈎遺跡からは、弥生時代中期の導水施設で高さ3.5cmの日本最小の銅鐸が見つかっています。
日本で数十個の小銅鐸が見つかっていますが、「聞く銅鐸」や「見る銅鐸」とは違う目的で用いられたようです。大きな銅鐸が山麓や集落のはずれに埋納されるのに対し、小銅鐸は集落から見るかるケースが多いようです。下鈎遺跡の小銅鐸は、聖なる水を得るための儀式で鈴のような使い方をしたのかも知れません。
小銅鐸(下鈎遺跡) 【滋賀県教委】
小銅鐸
古い形式の銅鐸
大岩山銅鐸の外にも、野洲川下流域と周辺で9個の銅鐸が見つかっています。
守山市の新庄では、銅鐸の歴史の中でも古い形式の新庄銅鐸が1個出土しています。江戸時代の記録では4個見つかっていますが、現存するのは1個のみで倉敷市に保管されています。
野洲川下流域に隣接する東近江市の山面で、新庄銅鐸に継ぐ古さの銅鐸が2点見つかっています。9個の銅鐸は、全般に大岩山銅鐸よりも古い形式のものが多く、「聞く銅鐸」として使われていました。
大岩山で見つかっている新しい世代の「見る銅鐸」と考え合わせると、近江地区では古くから「聞く銅鐸」の祭祀が行われ、弥生時代後期には「見る銅鐸」の祭祀に変容しながらも銅鐸を使った儀礼が続いていたことが判ります。
銅鐸は主に山陰、四国、近畿、東海などで使われていましたが、弥生中期(聞く銅鐸)〜弥生後期(見る銅鐸)を通して使っていたのは近江を含む近畿だけです。
銅鐸の耳
守山市の下長遺跡から銅鐸の飾耳が一点出土しています。下長遺跡は弥生遺時代後期に出現し、伊勢遺跡群の一つとして機能していました。しかし、下長遺跡が最も栄えるのが古墳時代に入ってからで、豪族の居館が建ち、河川・湖上貿易の拠点となります。すなわち、銅鐸の祭祀の終焉に立会い、その後の鏡の祭祀を行った遺跡です。
そこから埋納したはずの銅鐸の飾り耳を切り落としたものが出土したのです。およそ70cmクラスの銅鐸の飾耳だと推測されますが、対応する銅鐸は見つかっていません。
青銅器は非常に堅固で銅剣や銅矛として用いられるものでもあり、銅鐸も叩いて割れるものではありません。また、簡単に切り落とせるものでもありません。でも、高温に加熱して柔らかくしたら切ることができます。銅鐸祭祀の終焉にあたり、これまで大切にしてきたものを忘れないために隠し持ったのか、あるいはお守りとして残したのかも知れません。
小銅鐸
切落された銅鐸の耳(下長遺跡)【守山市教委】
その他の青銅器
下之郷遺跡で銅剣が1本見つかっています。
九州、西日本、大阪湾岸では銅剣や銅矛などの武器系の青銅品が祭祀に使われており、銅剣は瀬戸内地方で使われていたものです。
それが下之郷遺跡から見つかりました。野洲川下流域の他の場所では見つかっていません。
下之郷遺跡で銅剣が見つかったのは「銅剣圏」の最東端、それもかなり離れた所になります。不思議でもあり、遠方との交流を示す証拠でもあります。
あとは、青銅製品としては、下鈎遺跡で見つかった銅釧(どうくしろ)や銅鏃(どうぞく)があります。
銅剣
銅剣(下之郷遺跡)
【守山市教委】
銅鏃・銅釧
銅鏃・銅釧(下鈎遺跡)
【栗東市教委】
銅鐸の生産拠点?
銅鐸をつくる鋳型が多く見つかり、銅鐸の生産拠点と見なされていたのは、北九州と近畿の摂津、大和(唐古・鍵)などです。面白いことに多量の銅鐸が出土している、島根や淡路島、和歌山からは鋳型が出ていません。
一方、銅鐸の出土が極めて少ない北九州で銅鐸の鋳型が見つかっています。
近江は銅鐸の出土も多く、銅鐸の鋳型や青銅器生産に関連するふいご部品が見つかっています。
銅鐸の鋳型としては、守山市の服部遺跡や栗東市の下鈎遺跡、野洲市の下々塚遺跡から見つかっており、とくに下鈎遺跡からは青銅残滓(ざんし)が出ており、青銅器をつくっていたのは間違いないでしょう。
興味深いのは、服部遺跡から大阪湾型銅戈の石製鋳型の一部が見つかっていることです。銅鐸の鋳型も出ていることから服部遺跡で青銅品を鋳造していた可能性は強く、ここで大阪湾型銅戈を作って近畿湾岸圏へ供給していたと考えられます。
唐古・鍵遺跡でも「見る銅鐸」の土製鋳型が多数見つかっていますが、大岩山の近畿式銅鐸は地元で設計し製作していた可能性があります。
鋳型
鋳型(服部遺跡)【守山市教委】
鋳型
鋳型(服部遺跡)
【守山市教委】
銅鏃・銅釧
鋳型と青銅残滓(下鈎遺跡)
【栗東市教委】
まとめ
野洲川下流域では弥生中期から後期にわたり銅鐸の祭祀を行ってきました。銅鐸祭祀の終焉にあたり、大岩山に埋納して、弥生時代が終わりました。
野洲川下流域には日本で最小の銅鐸と最大の銅鐸があります。銅鐸の変遷から考えると、近畿式銅鐸はここで生産していた可能性があります。

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