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銅鐸祭祀圏を統合した近畿政権(2)
  〜状況証拠から見えてくる近畿政権の中核:近江〜
青銅器祭祀の変遷から、小さな国々がまとまっていく様子を見てきました。
\銅鐸祭祀を継続したのは近畿と東海で、近畿地方の国では、近畿政権が誕生していたと考えられます。
では、その中核となる地域はどこなのか、銅鐸の制作主体の検討や状況証拠から推測していきます。
銅鐸の密度分布から判る地域政権
銅鐸密度分布 前節の「弥生時代後期の青銅器祭祀の地域性」で、銅鐸の分布範囲を示しましたが、その主力がどこであったのかを知るためには出土密度を見る必要があります。
愛媛大学の吉田広さんたちはGIS解析の手法を使って青銅器祭祀の密度分布を視覚的に分かりやすく図示しています。その中から弥生時代後期の「見る銅鐸」の密度分布図を転記します。
この図から、近畿式銅鐸は近畿東部(近江南部)に密度が高く、和歌山でも多く見られます。一方、三遠式銅鐸の密度分布は東海地方が圧倒的に高く、近畿、北陸にも密度は低いながらも広がっていることが見て取れます。
また、東海地方でも近畿式銅鐸の密度が高くなっていますが、これは三遠式銅鐸が近畿式銅鐸に統合された後の銅鐸です。このように、銅鐸の密度分布からも地域政権の所在が近畿地方と東海地方にあったことが視覚的に判ります。
近畿の勢力と東海の勢力が並び立っているように見えますが、最終的には、上にも述べたように近畿式銅鐸に統合され、銅鐸圏を広く治める近畿政権が浮かび上がってきます。
銅鐸の変遷、出土状況から見えてくる製作地域
青銅祭器の分布から地域政権の誕生と範囲が見えてきて、さらに銅鐸を詳しく調べることにより、小さな地域政権が政治的統合を行って大きな地域政権になる様子がみえました。
では、その中核となる地域はどこなのかを絞り込むために、銅鐸の変遷、銅鐸や鋳型の出土状況から推測していきます。
地域政権の伸張は「発見された銅鐸の数量と分布」から考えていますが、注意を要するのは、銅鐸は集落から離れた所にまとめて埋納されるのが多いことです。青銅祭器は権威の象徴であり、その政権のシンボルであるとすると、銅鐸が出土した場所よりも、誰が製作主体であったのかということが重要になります。
ここでも、先述の難波さんの見方に準拠し、銅鐸の鋳型が見つかっているのかなどを含めて、製作地域を考えてみます。
【近畿式銅鐸のルーツとしての大福型銅鐸の製作地域】
まず、近畿式銅鐸のベースとなる大福型銅鐸は出土地が判明しているのは4個で、内3個は大岩山で見つかったものです。しかも、大岩山の24個の銅鐸の中で、一番古いのがこの形式で、「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」の移行期に当るものです。このようなことから、難波さんは近江の工人が造ったものではないかと推測されています。ここで、近江が製作地域として浮かび上がります。
【近畿式、三遠式の双方に影響を与えた横帯分割型銅鐸の製作地域】
難波さんは、瀬戸内東部の工人集団が製作したのでは・・・と推測されています。さらに、横帯分割型銅鐸と平型銅剣の分布の重なる場所とも言われています。量的なことも考えると、この条件をよく満たすのは讃岐です。
一方で、鋳型の出土地と考慮すると、摂津が有力な製作地域になります。
【三遠式銅鐸のルーツとしての東海派銅鐸の製作地域】
出土地が判っている東海派銅鐸は4個あり、1個は尾張から、3個が三河からです。東海派銅鐸の祖形は「聞く銅鐸」へさかのぼることができますが、これらは近畿以西から出土しており、製作工人たちは「見る銅鐸」の時期に東海へ移ったものと考えられます。尾張または三河の地域勢力が製作主体と考えられます

以上のように推定した銅鐸製作地域を図示します。
銅鐸製作地域
拠点集落を考え合わせると見えてくる近畿政権の中核:近江南部勢力
吉野ヶ里遺跡や池上曽根遺跡など大型建物や祭祀空間が見つかった遺跡は、その地域における拠点集落であり、政治・経済の中核的役割を担っていたと考えれれています。
したがって、銅鐸の製作主体を絞り込むためには、銅鐸が造られた時代に、その近辺にどのような拠点集落があったのか、を考える必要があります。
【近畿型銅鐸最盛期の地域勢力】
弥生時代後期前半、近畿式銅鐸がどんどん大きくなり始める頃、近畿の拠点集落は解体し小さくなる中で、突如現れる巨大遺跡が伊勢遺跡です。吉野ヶ里遺跡や池上曽根遺跡と比べても大型建物が圧倒的に多く、祭祀空間としても巨大です。
ただ、伊勢遺跡は祭祀空間であって、近江勢力の拠点であったかどうかは判りませんが、伊勢遺跡または、この周辺に近江勢力の拠点があったと考えられます。
先にも述べたように、近江型土器が全国に向けてどんどん拡散していくことからしても、この地に大きな力を持つ勢力があったことも確かです。また、先ほど、政治連携が武力ではなく、祭祀を通じてなされた・・と言いましたが、伊勢遺跡の祭祀空間がその役割を果たしたと充分考えられます。
他に大きな勢力はなく、上記ような背景から、また、大福型の後継形式を強く受け継いでいることなどを勘案して、近畿式銅鐸の製作主体は「近江南部の勢力」と推定します。
【三遠式銅鐸最盛期の地域勢力】
東海地方では、三遠式の由来となっているように、三河、遠江から銅鐸が多く発見されています。
では当時、どんな遺跡が東海地方にあったのでしょうか? 尾張(名古屋市)で見つかっている巨大な朝日遺跡があります。吉野ヶ里遺跡にも匹敵する大きな拠点集落です。独自の土器文化を持っており、この地方発祥のS字甕は西は近畿へ、東は中部、関東方面に広がって見つかっています。
銅鐸の鋳型は三河、遠江からは見つかっておらず、尾張では見つかっているのです。
上記ような背景から、三遠式銅鐸の製作主体は「尾張勢力」と推定しました。

以上のように推定した銅鐸生産主体を図示します。
銅鐸の変遷
銅鐸の統合・変遷から浮かび上がる地域政権の統合は、武力ではなく、祭祀の力を使ってなされたもので、有力な候補が近江南部勢力になります。
弥生後期の近江地域の力を示す状況証拠
これまで、野洲川下流域に限った遺物・遺構の紹介をしてきました。弥生後期、30余国が覇権を争っていた時代、それぞれの国の力はどうだったのか、野洲川下流域の集落は、他の地域と比べてどのような規模であったり、位置付けであったのかを見てみます。
【銅鐸:技術力と財力】
出土した銅鐸の数でみると、淡路島、桜ケ丘遺跡をかかえる兵庫県がトップで、島根県、徳島県に次いで滋賀県は40個の銅鐸が出ています。
単一遺跡からの出土数では、島根県の賀茂岩倉遺跡から39個の銅鐸が出土しており、滋賀県の大岩山で見つかった24個の銅鐸は、これに続くものです。
しかし、弥生時代後期の「見る銅鐸」については、近江と遠江でほぼ同数を出土しています。その後の銅鐸の統合を考えると、前節で述べたように、近江が銅鐸圏の覇者になります。
大岩山の135cmの銅鐸は群を抜いて大きく、現在の鋳造技術をもってしても難しいと専門家が言っています。それだけの技術を持つ工人をこの地で擁していたことになります。またこの銅鐸は45kgの重さがあります。難波さんによると、当時の銅の価格は鉄の4倍だそうで、これだけの銅素材を得るためには相当の財力を要します。近江には技術と財力があったとことになります。
【玉作り集落:財力】
玉製品は権威を示し、お墓の副葬品にも成りましたが、代替貨幣としても使われていました。鉄や銅を入手するために用いられたと思われます。
これまでに見つかっている玉作り集落の数は、原石を産出する佐渡が30ヶ所で、近江が23ヶ所と続きます。代替貨幣となる玉の原石はどこも入手を欲し、争いがあったと思われます。そのような中で原石を確保し、玉造りをしていた近江の力はとても大きかったと言えます。その近江の玉作り集落は野洲川下流域に集中していました。
【土器の広がり:情報力】
「近江型土器が語る弥生の近江商人?」のところで述べたように、近江型の甕や鉢は他の地域の土器に比べて、広範囲に広がって出土しています。北九州から瀬戸内、新潟、群馬、千葉、遠くは韓国に至るまでの甕や鉢が見つかっています。それだけ広範囲に近江の人が移動し、交易をしていたということが判ります。
このことは、交易だけではなく、情報入手、情報伝達という観点で重要なことです。 倭国大乱のとき30の国々は共に卑弥呼を擁立したとありますが、そのために国々を巡って情報交換をしたのは誰か? 「弥生の近江商人」であった可能性は大きいと思います。
【手焙り型土器:祭祀の力】
「いろいろなまつり・儀礼の道具」のところで、手焙り型土器について述べました。 これは近江型土器の上にフードが付いたもので、祭礼や儀式で用いられたと推定されます。この手焙り型土器は、近江発祥で河内、大和でも多く出土しており、盛行期には尾張でも使われるようになります。さらに、九州、中国、北陸、関東地方にも分布が広がります。
すなわち、近江の祭祀の道具、スタイルが全国に拡散していった、ということになります。
ちなみに、河内は池上曽根遺跡が、大和は唐古・鍵遺跡が、尾張は朝日遺跡があった辺りになります。いずれも弥生時代を代表する遺跡であることが興味を引きます。
【米つくり:基礎生産力】
当時の米の生産量は国力に直接結び付くものであったと言えます。では、当時の各国の米の生産量はいくらであったのでしょうか?
千城 央さんは著書「近江にいた弥生の大倭王」の中で、弥生時代後期と平安時代で、各国の水田の広さは違うものの、國間の相対比較には大きな違いはないだろうという前提で、平安時代の和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)記載の田積数を基に各国の水田広さと戸数を考察されています。戸数の推定に当たっては、既に所在地が比定されている国の田積数と魏志倭人伝に書かれている戸数を基にして計算されています。
田積数
西日本諸国で、田積数が最も多いのは近江で33403町歩、次いで吉備に相当する備前・備中・備後の32715町歩、その次が吉野ヶ里地区の筑後+周辺で20000町歩となっています。大和、出雲・伯耆、筑前は18000町歩前後です。
すなわち、近江は西日本最大の米の生産量を誇っていました。それだけ多くの人が住んでおり、また、各地から交易に来た人たちの食糧を賄えたということを意味します。 ちなみに、上記の大和、吉備、出雲、筑前は邪馬台国の候補地として推定されている所です。
千城 央さんは、田積数と魏志倭人伝に記載されている国々の戸数を比較して、国の所在地を推定し、邪馬台国に相当する戸数を賄えるのは近江であると判定されています。
【弥生のGDP】
弥生時代の国力(後期では30余各国)を示す指標が何なのか判りませんが、GDP(国内総生産)的な見方をすると、銅鐸製造、玉作り、お米の生産量などが要素として考えられます。
以上、状況証拠を示したように、近江南部の弥生GDPは群を抜いて大きかったに違いありません。
【政治祭祀空間】
政祭一致の当時、弥生時代後期の近畿地方ではそれまでの大集落が中期末ごろに消えて小さな集落に分散していました。そうした中で、大きな祭祀空間、政治空間を持つのは伊勢遺跡だけですし、銅鐸祭祀の総本山としての巨大な祭祀空間を持つのは、近畿圏ではここだけです。

伊勢遺跡は政治祭祀空間であり、行政執行機関の遺構は見つかっていません。
しかし、以上のような状況証拠から、野洲川下流域に近江政権の拠点があったと推定され、伊勢遺跡周辺にその遺構が眠っている可能性があります。
ただ、伊勢遺跡は人の住んでいなかった土地に突如として建設されているので、何らかの目的をもって新しい地域に造られた祭祀空間とも考えられています。
まとめ
見る銅鐸の分布密度、製作主体の検討、そのたの状況証拠から、近畿政権の中核としての近江南部が浮かび上がってきます。
銅鐸祭祀の中核となったのが伊勢遺跡と考えられますが、突如として近江に誕生する伊勢遺跡は何らかの政治目的を持って造営されたとも考えられます。

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