こんなに凄い遺跡だった > ヤマト王権の形成を主導した近畿政権
ヤマト王権の形成を主導した近畿政権
突然現れて短期間で終焉する伊勢遺跡、何のための祭祀空間で、どうして短期間で終わるのでしょうか? 初期ヤマト王権の設立に強く関与したようです。
近畿政権の時代と推測できる事柄
これまで、遺物・遺構などを基に野洲川下流域の弥生遺跡を見てきました。青銅器祭祀や銅鐸の変遷、その他の状況証拠から近江南部(野洲川下流域)に近畿政権の中核があると推定しました。
具体的には、近畿政権の祭祀空間は伊勢遺跡にありました。
では、近畿政権が果たした役割は何だったか考えてみます。
役割を考える前に、遺跡の誕生と衰退、銅鐸の変遷、政治情勢などを整理しておきます。
具体的には、近畿政権の祭祀空間は伊勢遺跡にありました。
では、近畿政権が果たした役割は何だったか考えてみます。
役割を考える前に、遺跡の誕生と衰退、銅鐸の変遷、政治情勢などを整理しておきます。
【伊勢遺跡の盛衰】
- 伊勢遺跡は1世紀末頃に、なにも無い所に突如現れて巨大化する
そうして、弥生時代後期末(2世紀末)に平和裏に(災害や破壊でなく)終息する - 伊勢遺跡が誕生する頃に、大福式銅鐸を母体として統合された近畿式銅鐸が生まれる
伊勢遺跡の隆盛とともに三遠式銅鐸とも統合される - 2世紀末、卑弥呼が共立される頃、伊勢遺跡は終焉を迎える
- その頃に銅鐸の祭りが終わり多量の銅鐸が大岩山に埋納されて、鏡の祭りに変わっていく
【時代背景】
- 107年、倭国王帥升等、後漢に朝献する[後漢書東夷伝]
帥升は、100余国が30国に統合されていく時代の王 - 男王の統治70〜80年続くが、やがて180年ごろに倭国大乱が発生する[魏志倭人伝]
- 国々が卑弥呼を共立し王とする[魏志倭人伝]
- 239年 卑弥呼、魏明帝に朝献[魏志倭人伝]
- 247〜248年卑弥呼死す[魏志倭人伝]
- 3世紀前半 纒向遺跡が突如現れる、初期ヤマト王国がスタート
【推測できること】
- 弥生時代後期、見る銅鐸の祭祀が始まった後、しばらくして近江南部の勢力が主導して祭器は近畿式銅鐸に統合されます。それを契機にして伊勢遺跡の諸施設の建造が始まったと考えられます。
銅鐸の祭祀を統合した国々が共同の祭祀空間を持とうとした結果だと思われます。何もない所にいきなり巨大祭祀空間が造営されるのは、このような目的があったからでしょう。 - この時、近江南部にあった国の王が誰かは分かりませんが、近畿政権の代表として後漢書に「倭国王帥升」と書かれる可能性も考えられます。
- 30余国は連合していくつかの地域政権を形成していましたが、より大きな統合に向けて競合し、やがて、倭国大乱となり相攻伐することになったようです。
- 国々は戦いを収束するために、協議して一女子を立てて王とします。
協議する場所は、共同で建設した祭祀空間、伊勢遺跡が最もふさわしい所です。 - 倭国大乱を収めるためには、これまでのしがらみのない新しい政治・祭祀システムが必要とされ、共立した卑弥呼は新しい土地を求めたのではないでしょうか。そこが大和の纒向であったのでしょう。
近畿政権が果たした役割は
以上のような状況や推測を基にして、「畿政権が果たした役割」を紹介しておきます。
森岡さんの「原倭国論」に共感していますが、野洲川下流域の弥生遺跡を見てきた立場としては、原倭国は近畿政権と重なるものであり、その中心部は伊勢遺跡を祭祀空間とする近江南部ではないかと考えています。 卑弥呼を共立した近畿政権の中枢は大和に移り、原倭国の首脳部集団は大和の山野辺の道・上ツ道に沿って、各自のムラを築きました。それらは、和邇、丹波、倭(大和)、尾張、出雲、吉備、息長の名前を持つムラです。
大和にヤマト王権が確立された後も、野洲川下流域はヤマト王権との密接な関係を保ち、栄えていきます。
原倭国論
橿原考古学研究所の森岡秀人さんは、大和に「倭国」が成立する前段階に、「原倭国」が近畿・東海をカバーする地域にあり、中心部は近江を要とする北近畿にあったと推測されています。
土器や青銅品の動向、国際情勢から考えて、それだけの巨大な権力を有する地域政権が近江にあり、伊勢遺跡こそが原倭国の統合の場であり、クニグニの卑弥呼共立の場であった、と見ておられます。
連合国家の盟主である原倭国が、卑弥呼擁立を主導したという説です。
卑弥呼をマツリゴトの中心に据えることに成功した原倭国の首脳部集団は、大和盆地へ移動し本格的な倭国建設を始めた・・・と考えておられます。伊勢遺跡で共立された卑弥呼は倭女王の位につき、近江を離れ邪馬台国の王都で政治的な活動を行うことになります。
土器や青銅品の動向、国際情勢から考えて、それだけの巨大な権力を有する地域政権が近江にあり、伊勢遺跡こそが原倭国の統合の場であり、クニグニの卑弥呼共立の場であった、と見ておられます。
連合国家の盟主である原倭国が、卑弥呼擁立を主導したという説です。
卑弥呼をマツリゴトの中心に据えることに成功した原倭国の首脳部集団は、大和盆地へ移動し本格的な倭国建設を始めた・・・と考えておられます。伊勢遺跡で共立された卑弥呼は倭女王の位につき、近江を離れ邪馬台国の王都で政治的な活動を行うことになります。
森岡さんの「原倭国論」に共感していますが、野洲川下流域の弥生遺跡を見てきた立場としては、原倭国は近畿政権と重なるものであり、その中心部は伊勢遺跡を祭祀空間とする近江南部ではないかと考えています。 卑弥呼を共立した近畿政権の中枢は大和に移り、原倭国の首脳部集団は大和の山野辺の道・上ツ道に沿って、各自のムラを築きました。それらは、和邇、丹波、倭(大和)、尾張、出雲、吉備、息長の名前を持つムラです。
大和にヤマト王権が確立された後も、野洲川下流域はヤマト王権との密接な関係を保ち、栄えていきます。