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 お知らせ と トピックス
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お知らせ

【公開勉強会のご案内】「下長遺跡と野洲地域の古墳時代」(H29.10.1)

公開勉強会を下記の通り開催します。NPO会員以外の方でも参加いただけます。
 (定員オーバの場合は、お断りすることがあります。ご了承ください。)
開催日H29年11月19日(日) 10時〜12時
内 容第1部 下長遺跡ホームページについて
    NPO法人守山弥生遺跡研究会 理事長 田口一宏
第2部 長遺跡の時代―守山における古墳時代の始まり―
    守山市文化財保護審議委員 大橋信弥 氏
場 所守山 駅前コミュニティホール 第3会議室
守山駅西口から直結 セルバ2階より階段またはエレベータで3階まで
申込み事前 申込み必要 定員25名(先着順)
参加費 200円(資料代) (NPO会員は無料)
 090−7362−4836 (中井)、info-myk@yayoiken.jp(田口)

 詳細は こちらへ ⇒ちらしを表示


昭和の発掘史にきらめく「大服部遺跡展」開催@守山市立埋蔵文化財センター(H29.10.10)

ポスター服部遺跡は昭和49年夏に発見された「縄文時代〜平安時代」の複合遺跡で、詳細はこのホームページに解説されているとおりです。
今回、40年も前に野洲川下流域で大掛かりな発掘調査が行われ、昭和の発掘史にきらめきを刻んだ服部遺跡の貴重な出土品を見ることができます。
開催期間
平成29年10月1日(日)〜11月30日(木)(休館日:火曜日、祝日の翌日)
開館時間
午前9時〜午後4時まで
展示場所
守山市立埋蔵文化財センター 守山市服部町1318
展示内容
服部遺跡の発掘調査出土品 他 約240点
主な展示品:土器(縄文土器、弥生土器、須恵器、黒色土器)、陶磁器、青銅器鋳型等
   石器(石棒、石斧、石鏃)、銅鏃、銅印、銅銭、墨書土器、木簡、帯金具、木製容器等

◆関連事業◆ 特別講演会
 演題:「服部遺跡が語ったもの(仮題)」
 講師:大橋信弥氏(守山市文化財保護審議会委員・服部遺跡調査担当者)
 日時:11月12日(日)午後2時から
 場所:守山市立埋蔵文化財センター 大会議室


伊勢遺跡・下之郷遺跡のモバイル版をアップしました(H29.10.1)

これまでに公開した弥生遺跡のホームページは、パソコンで閲覧することを前提として制作していました。
スマホやタブレットなどのモバイル端末でこれらのホームページを見た場合、画像が小さくて見辛かったり、拡大操作を数回行う必要があったりしました。
今回、表示幅が異なるモバイル端末に対応して画像の表示方法を変えるようにして、見やすく、操作しやすい「モバイル版HP」を制作し公開しました。
現時点では、 伊勢遺跡 と 下之郷遺跡遺跡
だけですが、その他のホームページもモバイル版を制作する予定です。


歴史フォーラムを開催します(H29.9.17)
  「倭国の形成と伊勢遺跡」

〜整備・活用国をめぐってV〜   − 山陰と近畿の弥生集落を中心に
【開催日】 平成29年9月17日(日) 午後1時から午後4時40分
【場所】 守山市民ホール 小ホール
【プログラム】
 台風のため中止となりました


「意見の広場」へ「 服部遺跡のミステリー 」を掲載しました(H29.1.23)

服部遺跡は「野洲川放水路」開削に伴い、広大な面積を一気に発掘調査したので、多くの歴史的な事実が判りました。
しかし、その一方で新たな疑問も湧いてきます。
そのような疑問について、状況証拠を踏まえながら考察してみました。
また、服部遺跡には繰り返して襲った大洪水の痕跡が残されていますが、2000年前の巨大地震によって引き起こされたと考えられる爪痕が残されています。
その巨大地震とそれに伴う大津波がもたらした社会変化について考察しています。
弥生時代中期を終焉に導いたのがこの巨大地震と考えられ、その痕跡が服部遺跡に残されていたと推察しています。

是非ご覧ください。 こちらから ⇒ 「服部遺跡のミステリー」

トピックス

 滋賀ICT大賞2017で姉妹HP「服部遺跡」が優秀賞を頂きました(H29.6.20)

写真
滋賀県地域情報化推進会議が開催していたウェブサイトコンテスト「滋賀ICT大賞2017」で、姉妹ホームページ「服部遺跡」が地域活動部門の最優秀賞を受賞しました。
このコンテストは、滋賀県内の企業、地域活動団体、公共団体、個人等が運営しているウェブサイトで、滋賀の魅力を発信し豊かな地域社会を築くことに貢献している優れたウェブサイトを表彰するものです。
審査員の方から
「学術的な専門家が積極的に関わっているため、地域資産としての遺跡等の情報を丁寧にわかりやすくまとめたコンテンツのクオリティが極めて高く、評価できる点となっています。また、「意見の広場」が設けられ、学術の市民化に貢献している点について評価できます。
受賞者様は、昨年度も別遺跡のウ工ブサイトで最優秀賞を受賞されており、作りにいい意味の安心惑、安定感があります。この方向性を継続して、今後も頑張っていただきたいと思います。 」とのコメントを頂きました。
私どもがホームページを制作する基本的なスタンスが評価されました。


「服部遺跡」ホームページ公開記念講演会
 「古墳文化へのトレース 狗奴国の行方」を開催しました(H29.2.5)

ポスター
【日時】 平成29年2月5(日) 午前14:30〜16:50
【内容】 第1部 14時30分〜15時
テーマ:服部遺跡ホームページの紹介
講 師:田口一宏(NPO法人守山弥生遺跡研究会 理事長)
第2部 15時〜16時20分
テーマ:古墳文化へのトレース 狗奴国の行方
講 師:赤塚次郎氏(愛知県埋蔵文化財センター 副所長)
第3部 16時30分〜16時50分
考古学者に聞く
【場所】 ライズヴィル都賀山  1F レストラン ヴェルデュール
【主催】 NPO法人守山弥生遺跡研究会

【講演の様子】
今年の「記念講演会」は、講演会場がとれずレストランを借切っての講演となりました。 そのため、聴講者には参加費を払っていただき、その代わりに好きな飲み物を提供する形となりました。
午前中の雨も、開演時刻には上がり、募集定員60名を大幅に超える80名の方に参加して頂きました。
新HP概説、赤塚氏の講演ともに新たな知見が得られたと好評でした。特に、赤塚氏の講演は「狗奴国」からの視点でのお話で、考古学ファンにとっても「邪馬台国とは異なる観点の内容が目新しかった」と喜んでもらえました。
レストランの午後の空き時間を借りたため、時間的な制約があって、質疑に十分な時間を取れなかったのが心残りでした。

【講演の骨子】
「服部遺跡」ホームページ概説
講演風景 新しく制作された「服部遺跡」の誕生と遺跡の概要の話と、「服部遺跡のミステリー」の中から、2000年前の巨大地震にまつわる話の2本立てで講演がありました。
  • 服部遺跡は立地環境上、約100年〜200年間隔の大洪水により繰り返して埋没し、サンドイッチ状に各時代の遺構が残された。この結果、時代別タイプカプセルのように、歴史を追って遺構・遺物を見ることができる、貴重な複合遺跡である。
  • 近代になっても生じる洪水を根本的に絶つために、新たな放水路が開削され、このために発見され、結果的には消え去った遺跡である。
  • 服部遺跡には2000年前に生じた、南海トラフに起因する巨大地震の痕跡が残されている。
  • 2000年前の南海トラフ巨大地震で弥生中期が終わりを遂げたと考えられ、当時の社会の激変をよく説明できる。
講演「古墳文化へのトレース 狗奴国の行方 〜弥生後期の近江と東海〜
講演風景 弥生後期の近江と東海について、狗奴国からの視点で歴史の動き、古墳時代へ向けての社会変化に付いて、
 @地域の素材・地層 部族社会という視点
 A動き出す部族社会
 B狗奴国との抗争
 C気候変動をどう考えるか
の、4部構成で講演がありました。
  • 弥生後期から古墳時代を見るとき、邪馬台国、ヤマト王権にのみ目が行く風潮があるが、列島各地には豊かな地域社会があり、それぞれの視点から歴史を眺める必要がある。
  • 特徴的な土器や墳墓が地域的に伝搬・拡散・移動していく様子、三遠式銅鐸の分布などから、地域勢力の盛衰が読み取れる。
    弥生後期は、野洲川下流域 湖南地方から動き出し、それを受け入れながら東海が独自の文化を育て、東西に波及していく。狗奴国は近江から尾張にかけての一大勢力となる。
  • 歴史の大きな変節時点には、大きな気候変動や災害があり、最近の新しい年代測定技術から気候変動が読み取れるようになった(木材の年輪中の酸素同位体の比率測定)。これにより歴史の変節と気候変動を関連付けて読み解き、さらには実年代との結び付けも推測できるようになった。
  • 狗奴国と邪馬台国の間に大きな抗争があったように見られているが、一時的には対立もあったものの、最終的には協調し合いながら古墳時代へ向かっていく。


公開勉強会
 「ヒミコの時代の服部遺跡」を開催しました(H28.11.26)

昨年度に続き、NPO公開勉強会を開催しました。
【日時】 平成28年11月26日(土) 午前13:30〜16:00
【内容】 第1部 13時30分〜14時
テーマ:服部遺跡ホームページについて
講 師:NPO法人守山弥生遺跡研究会 理事長 田口一宏
第2部 14時〜15時
テーマ:ヒミコ時代の服部遺跡
講 師:守山市分化財保護審議委員 大橋信弥氏
第3部 15時10分〜15時50分  質疑応答など
【場所】 ライズヴィル都賀山  2F アイリス
【講義概要】
第1部
・服部遺跡の紹介  ・伊勢遺跡誕生の証(2000年前の大地震の痕跡)
第2部
・服部遺跡調査の思いで〜共に調査した人々〜
・歴史年代観の変化:気候変動を取り入れた時代の推定(前倒しになってくる)
・弥生中期〜古墳時代の服部遺跡、土器の変遷

町家歴史塾
 「倭国の中心は伊勢遺跡だった」が開催されました(H28.11.8)

守山市内にある伊勢遺跡がかって「倭国の中心であった」ということを主題に紹介しました。
うの家講演会 【日時】平成28年11月8日(火) 午前10時〜正午
【場所】うの家 南倉
【演題】「倭国の中心は伊勢遺跡だった」
〜弥生の祭祀、野洲川下流域の弥生遺跡から読み解く〜
【講師】田口一宏 (NPO法人守山弥生遺跡研究会)
【定員】先着30名 無料
【申込】守山宿・町家「うの家」 電話 583-2366
【講演概要】
・倭国とは  ・野洲川下流域の弥生遺跡の紹介
・伊勢遺跡の紹介  ・倭国の中心と、なぜ判るか?
・その力の源泉は?  ・伊勢遺跡が誕生する背景、契機

 滋賀Web大賞2016で最優秀賞を頂きました(H28.6.27)

写真 滋賀県地域情報化推進会議が開催していたウェブサイトコンテスト「滋賀Web大賞2016」で、本ホームページ「野洲川下流域の弥生遺跡」が地域活動部門の最優秀賞を受賞し、6月27日(月)に表彰されました。
このコンテストは、滋賀県内の企業、地域活動団体、公共団体、個人等が運営しているウェブサイトで、滋賀の魅力を発信し豊かな地域社会を築くことに貢献している優れたウェブサイトを表彰するものです。
審査員の方から
「遺跡のアーカイブとして地域のみならず全国的に見ても評価できます。資料的価値が高く、大変意義深いWebサイトです。各地の遺跡や史跡でも同様の情報発信をしてもらうような模範となると良いでしょう。
また、学術的な裏付けのある文章の質などレベルが高く、運営者の情熱も伝わってきます。
地元の人も知らなかったことが出てきますし、小中学校での調べもの学習に役立つでしょう。 」とのコメントを頂きました。
私どもがホームページを制作する基本的なスタンスが評価されました。

NPO総会で会員による歴史講演を行いました(H28.5.22)
  「卑弥呼の墓は近江にあるのか?」 〜伊勢遺跡で何が行われたのか〜  

写真 写真 5月22日に開催したNPO定例総会の後、当NPO会員の佐藤明男氏(ペンネーム:千城 央)による歴史講演を行いました。
佐藤氏は、弥生時代の全国の様子を網羅して調査し、『近江にいた弥生の大倭王(だいいちおう)』という本を発表され、その大倭王が卑弥呼では? と述べておられます。
それに続き『邪馬壹国(やまいちこく)からヤマト国へ 〜近畿東海が大地震で倭国大乱に〜』 を上梓されています。
総会の後、佐藤氏より、「卑弥呼の墓は近江にあるのか?」 〜伊勢遺跡で何が行われたのか〜  のタイトルで、卑弥呼の墓の所在について、佐藤氏が膨大な資料を調査し推定される場所について報告していただきました。

【期日】 平成28年5月22日(日) 午後1時30分から午後4時
【場所】 守山駅前コミュニティホール 3階 第1ホール
【プログラム】
午後1時30分 NPO総会 H27年度活動報告ならびにH28年度活動計画
午後2時〜3時30分 歴史講演 「卑弥呼の墓は近江にあるのか?」
 佐藤 明男氏 (ペンネーム:千城 央)
【主催】NPO法人守山弥生遺跡研究会会 
【講演の概要】
タイトルは「卑弥呼の墓は近江にあるのか?」ですが、結論を 先に言えば「比叡山の八王子山は卑弥呼の墓の有力地」という ことになります。
千城 央さんは自書『近江にいた弥生の大倭王(だいいちおう)』で、 弥生時代の全国の様子を網羅して調査し、近江の大倭王が卑弥呼では?と 推論され、また『邪馬壹国(やまいちこく)からヤマト国へ  〜近畿東海が大地震で倭国大乱に〜』で当時の倭国の動きを 述べられています。
これらを踏まえ、中国の陰陽五行思想や皇廟と祭祀場の位置関係、 ヤマトになってからの祭場と箸墓古墳などの位置関係などをもとに、 比叡山の八王子山は卑弥呼の墓の有力地としておられます。

「野洲川下流域の弥生遺跡」ホームページ公開記念講演会
  「倭国形成に向けての近江の役割」 を開催しました(H28.2.28)

【内容】
魏志倭人伝によれば、弥生時代後期末、男王統治のもと一女子を王として擁立しました。 それが卑弥呼です。
当時、近畿地方を統治していた大きなクニ「原倭国」あるいは「近畿政権」が主導して卑弥呼共立を行なった と考えられています。 その中核地が近江南部であり、共立を相談した場所が「伊勢遺跡」と推測されます。
今回の講演では、倭国形成に向けて近江南部が果たした役割についてお話をして頂きました。
【日程】 2月28日(日) 13時30分から16時30分
【場所】 ライズヴィル都賀山 5階 ロータスルーム 守山市浮気町300-24
【プログラム】
13:30 「野洲川下流域の弥生遺跡」HP概説 田口 一宏(NPO法人守山弥生遺跡研究会 理事長)
14:00 講演「倭国形成に向けての近江の役割」 森岡 秀人 氏(橿原考古学研究所共同研究員)
15:40 考古学者に聞く(自由質問) 森岡 秀人 氏
【主催】NPO法人 守山弥生遺跡研究会 
【講演会の風景】
募集定員60名を大幅に超える90名の方に参加して頂きました。やむなくお断りした方々もおられ、申し訳ございませんでした。
新HP概説、森岡氏の講演ともに判りやすく、新たな知見が得られたと好評でした。
初めての試みとして、講演頂いた森岡先生に「考古学者に聞く」という自由質問のコーナーを設けましたが、これもまた、常々疑問に感じていたことを質問できる好企画として喜んでもらえました。

会場風景
会場風景
田口
新HP概説:田口理事長
森岡
講演:森岡氏
【講演の骨子】
「野洲川下流域の弥生遺跡」HP概説
  • 野洲川下流域には、弥生時代を説明するキーワド「水田跡・大規模環濠集落・大型建物・玉作り・銅鐸・方形周溝墓」などが、質・量共に日本屈指のレベルで見付かっている遺跡群が揃っている
  • なぜここにそれだけの遺跡があるのか? びわ湖と野洲川の存在であり、多くの人が集まり豊かな生活を送っていた
  • 瀬戸内海、淀川水系、びわ湖、日本海ルート、東西の結節点であり、交易で栄えた
  • 近畿、東海、中国・四国の一部を緩やかに統合する盟主として卑弥呼の倭国形成を主導した
講演「倭国形成に向けての近江の役割」
中国の歴史書を読み解くと、倭国は6-800年続く。これを分断し、新しいステージとして「原倭国」を、纒向に形成される倭国の前段階に置いて考えている。この原倭国を主導した地域は近江南部を要とする北近畿で、倭国形成に果たした近江の役割が大変大きい。
弥生中期後半、野洲川下流域では大型環濠集落の下之郷遺跡の時代である。この時期、青銅器の生産体制や製造技術の変遷から、野洲川下流域の求心力の巨大化が見えてくる。
大阪南部で弥生時代の重さの原器が見つかっており、唐古鍵遺跡の建物など、当時の日本だけでは考えられない技術がある。中国で武帝による鉄の解禁が行われると早々と近江にも伝わりニノ畔遺跡で鉄を増やしてきている。
近江の遺跡を見るとき、明らかに、東は南関東、西は朝鮮半島を越えて楽浪郡、中国にも関与した動きを示している。ここに、近江の重要性が出てくる。
弥生後期、伊勢遺跡では多数の大型建物が見つかっており、規格性、計画性のある非常に洗練されたものである。このような建物が数多くあるのは伊勢遺跡だけである。
さらに重要なのは土器で、守山を中心として近江南部で発生した手焙り型土器です。伊勢遺跡が出現してしばらくの後に出現し、卑弥呼が政治的に活動しているときに活躍し、卑弥呼終了時になくなる土器である。
この普及が近江だけではなく近畿地方、岡山、北九州、東へは東海地方東部から南関東まで広がっている。かつ、見つかっているのが、重要な古墳や墳墓から見つかっていることである。手焙り型土器が見つかった千葉の古墳は前方後方墳で、この形式は近江が発祥である。
このような下之郷遺跡の時代、伊勢遺跡の時代が原倭国の時代観と重なってくる。伊勢遺跡はこのような近江の中枢となっており、伊勢遺跡が突如なくなるころに、奈良盆地の突如、纒向遺跡があらわれてくる。
すなわち、何もないところに大和王権が生まれるのではなく、近江の歴史を通じて大和王権が生まれてきた。

 勉強会 「魏志倭人伝を読み解く」  第2回「卑弥呼の外交記録を読む」を開催しました(H28.2.13)

【日時】2月13日(土)午後14時〜
【場所】うの家 南蔵
【講師】守山市文化財保護審議委員 大橋 信弥さん
【要旨】
前回の「邪馬台国への行程記事を読む」に続き、「卑弥呼の外交記録を読む」のお話をして頂きました。
「魏志倭人伝」の読みときには、「三国志」の中での位置付け、他の東夷の国々の記述と対比して読まないと誤解をする、倭国の歴史書として書かれた訳ではなく、周辺国の情報(場所、風俗、行政など)として記述しているものである・・とのことです。
ということで、今回は東夷伝に書かれている、国々の記事を解説して頂きました。
ただ、東夷の国々の中では、とくに詳しく好意的に書かれているようです。
倭国への工程が里数で書かれているが、当時の一里は約430mであること、しかしながら、行程1000里とか7000里という距離は、430mを前提としても4倍くらいの値になるとのことでした。(ということは、一里が100m)
次いで、外交記録について解説があり、卑弥呼・台与の時代9年間に4度も使節を送り、帯方群からも使者が2度来ており、後世の遣唐使などに比べて非常に頻繁に外交交渉が持たれていました。
勉強会のあと、お饅頭をいただきながら質疑応答があり、日頃疑問に思っていることを直接おききするよい機会でした。


中井純子 ホームページ原画展を開催しました(H28.2.12 〜 2.14)

NPO法人守山弥生遺跡研究会では、3番目のホームページ「野洲川下流域の弥生遺跡」公開を記念して、これまでのHPで使われてきましたイラストの原画展を開催しました。
会場1  会場2  会場2

これらの原画は、守山弥生遺跡研究会のメンバー中井純子さんが伊勢遺跡・下之郷遺跡・野洲川下流域の弥生遺跡の3つのHPのために描き、HPを彩ってきたものです。HPに掲載する絵なので小品ですが、水彩画の柔らかく優しい画で、多くの方から好評でした。
また、額縁の多くは、同じく研究会のメンバーが、「弥生」、「水彩画」のイメージに合わせて製作したものを用いました。
原画展の様子は、京都新聞に「弥生期の守山の暮らしを描く 〜遺跡研メンバーが水彩画展〜」として紹介されました。
京都新聞

【期日】 2月12日(金)〜14日(日) 11時から16時
【場所】 うの家 東蔵   守山市守山1丁目10-2

 平成の玉作り:石錐で玉に孔を穿つ (H27.12.27)

当「野洲川下流域の弥生遺跡」ホームページをご覧になった沖縄県の比嘉信保さんより、石錐を使った玉作りについてお便りを頂きました。比嘉さんは、「弥生時代の細形管玉の穿孔技術に驚き、その技術を知りたくて穿孔実験を行なう」ことをやっておられます。
実験結果を読んで、今度はこちらが驚きました。弥生時代と同じように、まず石錐を作り、次はその石錐を使って手作業で管玉材に孔をあける実験です。
その一部を紹介します。(文中、石針とは、とくに細い石錐のことを指す)
最初は、二上山のサヌカイトで1mm角の石針を作り、イモガイの殻軸やネフライト(軟玉:中国で玉として使われている)に孔を穿っていた。実験レポートによれば、研磨剤のサイズや押し付け強さ、回転速度などを変えながら、効率的な条件を見つける作業を繰り返していた。途中で石針が折れたり、孔がある深さになると穿孔が進まなくなったりして、苦労されている様子が見て取れます。
順調に進んで1時間に1mmの孔が開く・・という状況のようです。 レポートを読んで、1mm角の石針を作ることに驚き、数時間もかかって孔開けを行なう作業に驚きました。
比嘉さんは次いで、碧玉(ヒスイ輝石などの硬玉)の穿孔実験を計画し、碧玉が入手困難なことから、同じ硬度の鉄石英に穴あけ実験を行なった。ところがサヌカイトでは孔があかず、逆にサヌカイトの針がすり減っていく。それでメノウ石針を作って鉄石英を穿孔したところ通常の穴あけができた。ここでもいろいろと苦労されたようです。
石針で硬い玉に孔を開けるのが目的なので、石を切り出す作業は金鋸やステンレス板を用い、石針を把持する装置を作ったりされています。弥生人はこの点でも、もっと苦労があったことでしょう。
今回、比嘉さんから頂いた実験データで、多くのことが判った一方で、新たな疑問もわいてきます。自分自身、このような実験は出来ないものの、文献調査をやってみたいと思いました。この実験の努力には敬服します。
【石針作り】
石針作り
【孔あけ】
孔あけ
【現代版 治具】
現代版 治具

【補足情報】
草津市の烏丸崎遺跡からメノウの石錐が多数見つかっています。断面は多くが四角形で三角形のものもあります。太さは1mmから3mmに分布しています。
サヌカイトの石錐は、烏丸崎遺跡からは見つかっていません。穿孔時に使ったと思われる石英の細粉が見つかっています。
土産物や体験玉作りで用いられる石材は滑石というごく柔らかい石です。穴あけも電動ドリルを使ったりしています。
比嘉さんのように、弥生時代に使われていた石材で石針を作り、硬い玉材に穿孔する実験は貴重なデータです。


 勉強会 「魏志倭人伝を読み解く」  第1回「邪馬台国への行程記事を読む」を開催しました(H27.11.7)

【内容】三国志の魏志倭人伝は、日本の弥生時代を解読できる数少ない資料の一つです。
 今年度は、考古学者の大橋さんを講師にお招きし、「魏志倭人伝を読み解く」勉強会を開催しました。
 また講演会の後、参加者の交流を兼ねて講師を交えて茶話会(考古学者に聞く)を行いました。
【日時】11月7日(土)午後14時〜
【場所】うの家 南蔵
【講師】守山市文化財保護審議委員 大橋 信弥さん
【要旨】
講演会写真 NPO会員以外も方も大勢参加されて盛況でした。
「邪馬台国への行程」の読みときの前に、「三国志」が編成された時代と環境の解説、また、「三国志」の構成の解説がありました。
「魏志倭人伝」は当時の中国の辺境にある国についての記述で、全体から見るとほんの僅かな分量であること、とはいえ、倭人伝はその中でも、しっかりと書かれていることなど、全体の中での位置付けが判りました。
陳寿がまとめるに当り、参考にした歴史書が既にあったこと、「倭人伝」は中国の史家によって受け継がれ、注釈され、原本は無くなったものの転写されていったことなど「魏志倭人伝」を読むときに留意すべきことの説明があり、それ自体が興味深い話でした。、
次いで、行程の読みときの話と、それが「邪馬台国の所在地論争」を引き起こしていること、倭人伝成立の背景を考えると、あまり厳密に解釈することの問題点など聞きました。
勉強会のあと、軽い軽食を頂きながら質疑応答があり、日頃疑問に思っていることを直接おききするよい機会でした。


 伊勢遺跡講演会を開催しました(H27.10.31)
  『伊勢遺跡は何を成し遂げたか? その力の源は何か?』  〜野洲川下流域の弥生遺跡から読み解く〜

伊勢遺跡祭り前夜祭として、当NPO法人が伊勢遺跡に関する歴史講演をしました。
【日時】10月31日(土)午後19時〜
【場所】伊勢自治会館
【内容】 『伊勢遺跡は何を成し遂げたか? その力の源は何か?』 〜野洲川下流域の弥生遺跡から読み解く〜
【講師】NPO法人守山弥生遺跡研究会 理事長 田口一宏 
【主旨】
講演会写真 伊勢遺跡と言う素晴らしい遺跡が野洲川下流の左岸にあるのは何故か?、弥生時代の青銅器の祭りの分析と野洲川下流域にある弥生遺跡群を調べ読み解くことで判ってくる。
弥生時代後期に伊勢遺跡が成立する頃、近江南部は東海・近畿・西日本の銅鐸の祭りを統合する力を有していた。このことは、各地の青銅器の祭りの分布や銅鐸の出土分布、形式の変遷などから推定される。卑弥呼による倭国の成立前に、大きな力を持った近江南部の中核が野洲川下流域であり、その祭祀の場が伊勢遺跡である。
では、そのような大きな勢力のクニ(國)がここに成立する力の源泉は何か?、これも野洲川下流域にある弥生遺跡群を調べ読み解くことで判ってくる。
一言でいえば「地の利」であり、水田稲作の技術が未熟な時期にびわ湖畔に初期稲作に適した広大な土地があったこと、ならびに瀬戸内〜淀川〜琵琶湖を幹線とする交易路、東西日本の結節点という地の利である。
米の生産力が高いと人も集まり、人口も増え、権力醸成の背景となる。
野洲川下流域にある弥生遺跡群を丹念に見ていくと、その根拠や過程が判ってくる。
そのような巨大な権力を有する地域政権が近江南部にあり、伊勢遺跡こそがクニグニによる卑弥呼共立の場であった、と考えられる。