タイトル
 邪馬台国からヤマト国へ  【投稿No.千城201902】
NPO法人守山弥生遺跡研究会の会員の千城 央氏に投稿していただきました。
はじめに
三世紀の東アジア情勢は複雑で、中国は三国を統一した魏が晋と交代し、晋は北方民族の侵略があって不安定、朝鮮は中国の植民地である二郡と小国連合の三韓が北方民族の侵略にあって不安定、倭国は二つの小国連合が対立して戦闘となり、停戦・和解後に小国連合の統一が実現しやや安定した。
三韓に先んじて小国連合が統一されたことの意義は大きく、日本国という国家成立の歴史からみても極めて重要なステージアップである。この大事業がどのようにして達成されたのか、『魏志』倭人伝と三〜四世紀における近畿などの遺跡からその経緯を推察してみよう。
邪馬台国からヤマト国へ(概要版)
投稿の本文は、pdf形式の長文となるため、ここには概要版を掲載しています。
本分へのリンクを最下部に設けています。本分は、ここよりリンクしてください。

狗奴国に敗れた邪馬台国

@ 飛鳥時代の争乱を参考にすれば、戦いに駆り出されたのは政権を支える 豪族が雇用していた武人と所有していた工房の
  工人即ち奴婢である。
A 戦闘では大陸から伝わった鉄製武器が多用され、犠牲者の多くは素人兵 士の工人であったから、国が敗れたことにより
  工房が立ち行かなくなった。
B 狗奴国勢は勝利に乗じて近江に工房を作り、工人をこの地に移住させた。
C そのため敗戦後の邪馬台国は男王擁立でもめ、再び争乱が起きて犠牲者が さらに増えた。

三世紀の遺跡からみた狗奴国勢の攻勢

@ 奴国(福岡県福岡市・春日市)の鉄鍛冶師を稲部遺跡群(滋賀県彦根市) に移住させ、大規模な鉄器工房を設置
A 出雲の玉作師を林・藤島遺跡(福井県福井市)に移住させ、大規模な玉作 工房を設置
B 狗奴国勢の主力で和邇(わに)氏が指揮する吉備・山陰の同盟軍が、崇禅寺遺跡 (大阪市東淀川区)に砦を築き、
  淀川・木津川の水運を確保して奈良盆地北 東部を支配
C 河内における外来系土器の変遷
 ・概ね前2世紀〜前1世紀は、紀伊・近江系が多い
 ・概ね前1世紀末葉〜1世紀は、中部瀬戸内系が多い
 ・概ね2世紀は、近江系が多い
 ・概ね3世紀前半は、吉備系が多い
 ・概ね3世紀後半〜4世紀初頭は、東海・山陰系が多い
D 纏向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の特殊性
 ・魏の帯方郡から派遣された張政は、敗れた邪馬台国連合と勝った狗奴 国連合の調停を行い、連合の統一と中心国を
  ヤマト国に置くことで合意 し、都となる纏向遺跡の建設に入った。
 ・張政はその見返りとして、安定した鉄資材の供給と新都建設に新技術 を持つ鉄鍛冶師の派遣を約束した。
 ・ヤマト王権の出仕要請に応じた地方豪族が、古墳の築造に必要な山人(やまと) を交代制で派遣し、彼らは故郷に
  戻って纏向形前方後円墳を築造した。

四世紀の遺跡からみた狗奴国勢による邪馬台国進出

@ 安土瓢箪山(あづちひょうたんやま)古墳(滋賀県近江八幡市)
 双鳳文鏡を出土した四世紀中葉の前方後円墳(全長134m)で、狗奴国卑弥弓呼(ひみひこ)男王の後継者とみられ、
 狗奴国から移住し邪馬台国王となったの であろう。
A 雪野山古墳(滋賀県東近江市・近江八幡市・竜王町の境界)
 三角縁神獣鏡三面・東海系壺を出土した四世紀後半の前方後円墳(全長70m)で、被葬者は市場のあった
 石田遺跡・中沢斗西(とのにし)遺跡(滋賀県東近江市)を支配者した狗奴国系首長とみえる。
B 和邇大塚山古墳(滋賀県大津市)
 四世紀後半の前方後円墳(全長72m)で、近くに和爾川があって和邇氏の一族とされる小野妹子がこの地の出身である
 ことから、出雲系海人族の和邇氏系首長とみえる。
ヤマト国の建国と小国連合の統一
帯方郡の武官張政が到着したとき邪馬台国は混乱の只中にあったが、上記遺跡からみて邪馬台国が戦闘で敗れたことは明らかで、属国の庇護者である魏の助力がなければ国は潰れていたであろう。張政はここで双方に次のような条件を提示し、戦闘の中止と和解を勧告したことが想定される。
 ・双方が協力して小国連合を統一すること
 ・中心国は大和の奈良盆地に置くこと
 ・狗奴国勢による近江進出を認めること
 ・帯方郡は倭国に鉄資材の安定的な供給を行うこと
 ・帯方郡は新技術を有する鉄鍛冶師を派遣すること
狗奴国勢は容易にこれを受け入れ、渋る邪馬台国勢も説得に応じたとみるのが相当で、その時期は249年後半〜250年前半のこととなるだろう。張政は滞在期間三年弱で帰国し、弱体化した邪馬台国の朝貢を実現することができた。魏とすれば朝鮮統治の安定化を図ることが喫緊の課題であり、それには倭国内の対立抗争に終止符を打たせることが最善の策となる。
その結果、壱與女王と卑弥弓呼男王の立場は統一への橋渡し役に過ぎなくなり、実権は264年に邪馬台国の男弟王に就任した崇神帝に移り、ヤマト国の建国と統一小国連合構築の移行期となった。
したがって、ヤマト国誕生地の地である纏向遺跡の始まりは3世紀半ば以降となるが、狗奴国を支援する吉備・山陰勢はこれより先に奈良盆地へ進出しており、半ば以降はヤマト国の建国に貢献したので留意する必要がある。
邪馬台国からヤマト国へ 本文
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