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こんなに凄い遺跡だった > 近江型土器が語る弥生の近江商人?

 近江型土器が語る弥生の近江商人?
弥生時代、野洲川下流域の人々は、独自性の強い土器をつくり、長らく使い続けていました。この土器が日本の各地で見つかります。この土器の分布を見ると、人々は近江型土器と共に、交易品や情報を近辺のみならず遠方まで運び交易していたようです。言ってみれば弥生時代の近江商人です。
近江型土器とは
近江型土器 装飾性に富んだ縄文土器に比べ、弥生時代の土器はシンプルで機能的になります。
しかし、弥生時代の野洲川下流域は、日常生活の容器である土器に極めて強い地域性を持たせた土地柄です。弥生中期から他地域には見られない甕(かめ)型土器を製作し、弥生後期以降古墳時代までの長きに及んでいます。このような特徴は甕だけでなく、壷や器台、鉢についても言え、考古学の世界では「近江型土器」として知られています。 弥生土器は、穀物などを貯蔵する壷は美しい文様で飾られても、煮炊きに使う甕は厚い煤が付着するため、飾られることがないというのが一般的です。
ところが近江では、煤が厚く付着し薄汚れた甕にも丹念に文様が刻まれています。煮炊きに使用する甕までに著しく文様を加える近江の地域色は、弥生文化の中で異彩を放っています。
もう一つの特徴は、土器の口縁部を「く」の字方に立ち上げるつくり方です。これを「受口状口縁」と呼んでいます。近江型土器に顕著な特徴「受口状口縁」の写真を示します。
近江型土器が現れるのは、弥生前期にその兆候が出てきますが、顕著な形になるのは中期半ばになる頃です。各地の弥生土器も地域色を持っていましたが、月日と共に変化し、飾らなくなりますが、近江型土器は弥生時代を通じてその形式を維持し続け、古墳時代中頃まで700年間以上も継承します。
このような土器の独自性を持ち続けたことは、他の地域では見られないことです。
近江型土器の広がり
弥生時代、各地の人々は土器と共に移動し交易をしていました。交易のための品と食糧、自炊道具としての土器も一緒だった・・という訳です。 地域色のある土器の移動状況と量を調べると、交易の広さや密度が推測できます。そのような観点から近江型土器の出土分布を示したのが次の図です。
【弥生時代中期後半】
下之郷遺跡が栄える弥生時代中期には、近江型土器は、淀川水系、河内、伊勢湾岸、尾張から山陰、北陸にまで広がっています。 近江型土器と言っても、近江で作った土器を持ちこむケース(搬入土器)と、地方で近江型土器に似せてつくった土器(在地土器)があるので区別が必要ですが、最近は胎土(たいど)分析と言って、土器に使われた土の成分から搬入土器か在地土器かの区別がされるようになっています。
近江型土器の広がりから、野洲川下流域の弥生人がいかに広範囲に移動していたかが判ります。
【弥生時代後期】
弥生後期、伊勢遺跡が栄える時期には、近江型土器はさらに広範に広がり、北九州から新潟、群馬、千葉に至るまで近江型土器が見つかっています。最近、韓国南部でも近江から搬入された近江型土器が2点発見されました(発掘は2005年、判明したのが2010年)。これまで、九州の土器が韓国で見つかることはあっても、近江の土器が韓国に渡っていたことは両国の考古学者にとって驚くべきことでした。
それだけ広範囲に近江の人が積極的に移動し、おそらく交易をしていたということが伺われます。
この時期、各地の人々も自分たち独自の土器を持って移動しており、東海地方のS字型土器や近畿の庄内式土器も、広く移動し、各地で見つかっています。
しかし、量的には近江型土器がとても多いのです。
近江型土器が伝わった各地では、その土地の土を使って近江型土器を作り始め、在地土器となります。
近江型土器-中期

近江型土器-中期
弥生の近江商人?
すなわち、野洲川下流域の人々は、広範に繁く移動し、交易していたということです。
何を運んでいたのかは判りませんが、東西の結節点、瀬戸内と日本海側を結ぶ交易の拠点としての地の利を生かして各地の交易品の中継交易をおこなったり、野洲川下流域で造られた玉製品を運んでいたりしていたものと推測されます。
弥生時代後期の初めごろ、伊勢湾沿岸部から尾張地方にかけて、近江型土器が多量に持ちこまれ、また、そこで近江型土器に影響を受けた土器つくりが始まった痕跡が見られます(八王子古宮式土器)。野洲川下流域の人々は、物品の交易をするだけではなく、文化を持ち込み、その生育を手伝ったようです。
すなわち、弥生の近江商人がいて、交易や文化の伝播をおこなっていたと考えられます。後世の近江商人のルーツはここにあるのかも知れません。
変容しない近江型土器が意味するもの
近江型土器、中でも野洲川下流域でつくられる土器は長年にわたって独自性を持ち続けますが、なぜでしょうか?
びわ湖を中心に周囲を山々で囲まれた完結的な地域で、広大な米つくり地帯を擁していた地域、東西南北の交易の拠点、そうして伊勢遺跡という巨大な祭祀空間を抱えた地域としての誇りと富と力、これらを背景にシンボルまたはブランドとしての近江型土器があったのではないでしょうか?
近江型土器が伝わった各地で、在地化した土器が作られるのは、現在に例えるなら、ブランドバッグのコピー品作りに相当するように思えます。
もし、そうだったら、土器形状は変えないで、むしろ強調する方が有利となります。弥生後期、他の地域の土器が没個性化していく中で、近江型土器は装飾性を増していくのは、うなずけることです。
まとめ
近江型土器は顕著な独自性を長年にわたって保持し続け、各地に拡散していきます。それは交易の広さを示すものと考えられ、中期の下之郷遺跡の繁栄、後期の伊勢遺跡の隆盛とも重なります。
言ってみれば、後世の近江商人の先駆けで、交易だけでなく情報の収集、伝達を行っていたものと思われます。

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