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野洲川下流域の弥生遺跡 > 墓が語る権力者の出現

 墓が語る権力者の出現
墓制については地域差があります。野洲川下流域の墓制を見てみます。
弥生の墓はどんな墓?
縄文時代は、地面に穴を掘り遺体を住居のそばに埋葬する土坑墓(どこうぼ)が一般的でした。 弥生時代になると集落の近隣に共同墓地を営むことが一般的となります。埋葬形式は、地域ごと、時期ごとに墓の形態が大きく異なる点に特徴がありました。北部九州地方では、甕(かめ)・壺を棺とする甕棺墓(かめかんぼ)が顕著に見られます。近畿地方や伊勢湾沿岸部では木棺墓(もっかんぼ)が主流となりました。しかし木材は土中の保存状態が悪く、その実態は詳しく判っていないのが実情です。 近畿地方では弥生前期に、木棺を方形の墳丘で埋め、周囲に溝を掘る方形周溝墓が登場しました。 また、社会階層の分化に伴い、身分によって墓の規模や副葬品などに差が出てきます。
野洲川下流域の墓
【方形周溝墓とは】
方形周溝墓 野洲川下流域では、広い範囲で方形周溝墓群が見つかっています。方形周溝墓とは、周囲を溝で四角く囲い、その中に低い墳丘を築いたお墓で、その内部に木棺を納めます。
規模としては5〜15mくらいの大きさのものが多いようです。溝の幅は1〜5mくらいのお椀型やV字形で、深さもまちまちです。
方形周溝墓の墳丘は、後世に開削されてしまい、実際に見つかるお墓はほとんどが溝と墳丘の基礎部分しか残されていません。
残されている溝から、墓の造営の仕方や墓の規模の差が生じていく様が読み取れます。 方形周溝墓とともに土坑墓(大きな穴を掘って埋める)群も見つかっていて、階層差による埋葬の違いも見られます。方形周溝墓はだんだん大きくなり、やがて前方後方墳へとつながっていきます。
【集落と墓域の関係】
弥生前期〜中期初めの墓域はあまり見つかっておらず、栗東市の霊仙寺遺跡で、方形周溝墓1基とその周辺に20基の土坑墓からなる墓域が見つかっているくらいです。
中期になると多くの集落で方形周溝墓が見つかりますが、集落と墓域の関係にいくつかのパターンが出てきます。
方形周溝墓
集落内の墓域の例としては、野洲川右岸の多くの遺跡で、住居と方形周溝墓がセットとなって発見されます。集落外の墓域としては、守山市の下之郷遺跡や栗東市の下鈎遺跡がこのパターンで、環濠の外部に共同墓域があります。
集落外の大規模墓域ですが、弥生中期の服部遺跡(守山市)では、約8万uの範囲に360基を超す方形周溝墓が見つかっています。(後世の河で破壊されたものを推定すると500基以上?)
方形周溝墓群 写真は墓域の一部で、開削中の野洲川放水路の幅一面に広がっています。中央斜めの部分は、後世に墓を壊して流れた旧河道です。墳丘はほとんどが後世に削り取られています。
およそ300年の長い間、墓域の外側の集落がここにお墓を築いたようです。その後、ここは洪水で押し流されて砂に埋まってしまいます。発掘された 範囲内で墓域を区画する溝が見当たらないので、墓域はもっと広い範囲に広がっていたようです。
草津市の烏丸遺跡でも100基を超す方形周溝墓が見つかっており、服部遺跡に次ぐ敵する規模の墓域でした。烏丸遺跡の周溝墓群の東の端には区画溝があり、墓域を示していました。(ここも推定300基程度)
【一基に何人が埋葬された?】
木棺を埋納した穴は削り取られているのがほとんどで、墳丘部分はフラットになっている墓が多いのですが、墓坑が
深く掘られていた場合には、穴の下部が残されていることがあります。 墓坑はほとんどが1つだけですが、中には2つあるケースが稀にあり、中には3つの墓坑のある墓が見られました。
すなわち、一人を埋葬するためにお墓を構築しているということです。
方形周溝墓は「家族のお墓」という説もありますが、服部遺跡周辺の集落では稀なケースを除き、一人一基ということです。

残されていた墓坑
残されていた墓坑(服部遺跡)【守山市教委】
【残されていた木棺】
墓坑に納められた木棺は、ほとんどが墳丘本体と共に削りとられたり朽ち果ててしまっています。
しかし、墓坑が深かったため木棺が残されていたものがあります。服部遺跡で1棺、烏丸崎遺跡で5棺、小津浜遺跡でも見つかっています。
服部遺跡の木棺は一辺20mの最大クラスの方形周溝墓で見つかりました。木棺は蓋(ふた)板、底板、側板2枚、木口板2枚を組み合わせる箱式木棺でした。長さ2m、幅は約1mで、底板の厚さは15cmで、木材はコウヤマキです。コウヤマキは水に強く腐りにくい・・・という特性を、当時の人も知っていたようです。
木棺の中、周辺には、人骨、副葬品はなく、わずかにリン成分を検出しただけでした。巨大なマキの木を伐採し、木棺を作り、大きな周溝墓を構築する力のあった人物のお墓だったようです。
烏丸崎遺跡で見つかった木棺は、服部遺跡のものほど立派なものではありませんでした。しかし、一辺15mほどの烏丸崎遺跡で最大級の方形周溝墓の墓抗の底からヒスイ製の小玉と勾玉、碧玉製管玉と小玉が89点の玉類が見つかっています。この玉類は、烏丸崎遺跡の玉つくり工房で製作した可能性の高いものです。


木棺
木棺(服部遺跡)【守山市教委】
墓の大型化と格差の出現
中期の方形周溝墓には、多少の規模差がありましたが、中期末頃にはそれが顕著になっていきます。
墓のh変遷
方形周溝墓の変遷(服部遺跡) 出典:國 淡海に建つ
土坑墓群
土坑墓群(小篠原遺跡) 【野洲市教委】
大きな方形周溝墓の周囲に小さな周溝墓が取り巻くように配列されていたり、房のようにつながって並んでいたりします。このまとまりが一家族の墓と思われますが、中小の周溝墓が多い中、ムラの中に優位な家族が現れてきたことを示すのでしょう。
一方で、弥生後期には土坑墓群が現れます。野洲市の小篠原遺跡では数百基の土坑墓が、栗東市の十里遺跡で150基ほどの土坑墓が密集して営まれる遺構が見つかります。土坑の平面形は円形・楕円形で、大きさは1〜2m、深さは60〜90cmほどで、上層にイネ科の植物を燃やした炭層が薄く堆積しており、底から甕(かめ)が1、2点出土するものが多く、土坑墓であると考えられました。
大きな墓が作られる一方で、周溝墓を築くことのできない、身分の低いあるいは貧しい階層の人は共同の土坑墓を使ったのでしょう。
方形周溝墓が大型化するとともに、独立して築かれるようになり、溝の一辺の一部が埋められ、陸橋のようにする墓も出てきます。これは古墳時代になって、さらに前方後方周溝墓となり、前方後方墳につながっていくものです。
まとめ
野洲川下流域では、近畿地方で一般的な方形周溝墓が築かれました。墓坑に納められた木棺は数例を除きほとんど残されておらず、詳しいことは判りません。
時代と共に社会格差に応じて墓の大きさに差が出くる様子を見ることができます。

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