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下流域の弥生遺跡はこんな遺跡 > エピローグ:その後の野洲川下流域

 エピローグ:その後の野洲川下流域
古墳時代になると、弥生時代の拠点集落は消えていきます。しかし、この地には豪族が住み、交流の拠点として栄え続けます。力ある豪族は古墳を築き、鏡を埋納します。ヤマト王権とは密接な関係を持っていたようです。
あの遺跡は?
野洲川下流域で、弥生後期の最大拠点となった伊勢遺跡では、たくさんあった大形建物が突如なくなり、拠点としては衰退します。しかし、人々がいなくなった訳ではなく、祭殿群の跡地には竪穴住居が次々と建てられます。それも大型の竪穴住居が多く、中には祭殿の規模を超えるような大きなものまでありました。
なんだか、新興住宅地に新しい大きな家が建つような感じです。
これらの竪穴住居も古墳時代初期が過ぎると消えていきます。
一方、伊勢遺跡群として機能していた下長遺跡は、流通・交易拠点として大きく栄えます。伊勢遺跡にいた人々が移り住んだと考えられています。
青銅器作りの拠点であった下鈎遺跡もその役目を終え、近くの野沢遺跡に移っていくものとみられています。
野洲川南流と北流の間にあった服部遺跡は、中核都市として古墳時代以降も続きます。
古墳時代の下長遺跡
下長遺跡が突出して栄えるのは古墳時代前期です。 野洲川支流からびわ湖に通じる湖上運送を担っていたようです。支配者である首長の居館や祭祀に関する遺物・遺跡が出土しています。
下長遺跡
下長遺跡跡 出典:守山市教委「下長遺跡パンフレット」 一部改変

弥生後期から古墳時代前期の境川は、幅が約20mほどで東側から西側に流れていました。
その左岸に首長の居館や祭祀域、祭殿などが存在し、川に沿って交易のための倉庫や交易場所があったと推測されます。川の中からは、水の祭祀の後、川に流されたと考えられる木製品や祭祀具が出土しています。
また、交易品を運んだと考えられる「準構造舟」も出土しています。さらに、広範囲な地域から運ばれて来た土器が見つかっており、地域間交流の拠点、物資流通の要所として機能していたようです。
【古墳時代の祭殿】
弥生後期の祭殿が廃絶した後、隣接してもう1棟の独立棟持柱付き掘立柱建物が古墳時代初頭に造られます。梁行2間、桁行3間、床面積20uで、柱穴の規模や柱の太さはいずれもずいぶん小さくなっています。
弥生後期の建物が直径50cm程の丸柱が使われているのに対し、古墳時代のこの建物には、一辺15cm〜20cmの四角い柱が用いられているのが大きな違いです。その柱を観察すると、太い丸太を割って四角い柱に加工したことが分かります。 鉄の道具の普及や建築技術の変化があったようです。
古墳時代の祭殿
古墳時代の祭殿 【CG 小谷正澄】
【威儀具(いぎぐ)】
下長遺跡の首長は野洲川流域を支配する豪族であったと思われますが、出土した威儀具(豪族が権威や勢力を示す持ち物)やそこに施された文様などからは、中央の大和政権ともつながりのある大きな勢力を持っていたと推測されます。
儀仗(ぎじょう)は長さ1.2mで円形の頭部には組帯文(そたいもん)が施されています。刀剣の柄を飾る柄頭は、木製の生地に黒漆を塗り、その上に赤漆で直線と円弧の文様を描いています。 いずれも権威の象徴です。
威儀具
威儀具【守山市教委】
古墳時代の服部遺跡
服部遺跡古墳群ジ弥生時代後期に築かれた環濠も後期後半には消滅します。その直後、この辺りは大規模な洪水に見舞われ、大量の土砂が積み重なります。その後100数十年のあいだ人の痕跡はなくなります。 古墳時代前期、再び人々が住み始め100棟以上の方形竪穴住居を建てます。一辺が6〜8mで、規模の差はあまりありません。4〜6棟が中央の広場を囲むようにグループを構成しています。 その建物群もまた洪水で流されてしまいます。 古墳時代中期になると、この辺りには古墳が築かれ、29基が見つかっています。 円墳が9基、方墳が20基で、墳丘はいずれも後世に削り取られて、3〜6m幅の溝しか残っていませんでした。円墳は墳丘基礎部の大きさが、直径10m〜25m、方墳は一辺が8m〜20mでした。 服部遺跡は洪水や自然災害に見舞われながらも、立地が良かったのでしょう、古墳時代以降も人々が住んでいました。  
古墳を築いた権力者
野洲川下流域の首長たちは、3世紀後半から7世紀にかけて、三上山の山並みに続く大岩山の山麓から野洲市富波(とば)周辺の平地にかけて、大規模な古墳を造営していました。これが大岩山古墳群で、現在までに確認されている古墳の数は17基ですが、保存状態の良い8つの古墳が国史跡に指定されています。 多くが円墳と前方後円墳で、前方後方墳もあります。一番大きいもので全長90m、後は40m前後のものが多いです。 鏡が埋納された古墳や、石棺が残されている古墳もあります。石棺の材質は、熊本産の阿蘇溶結凝灰岩で、遠路はるばるここまで巨石を運んでくるだけの力のある首長だったのです。
交易の拠点であり続けた野洲川下流域
下長遺跡にはヤマト王権とつながりのある豪族が住み、河川・湖上運輸の実権を握っていて、各地と交易をしていたようです。
すなわち、野洲川下流域は古墳時代に入っても、交易の拠点として機能していたのです。それを裏付けるいくつかのデータがあります。
【玉つくりの拠点】
古墳時代に入っても、弥生時代から引き続き、野洲川下流域の広い範囲で玉つくりが行われていました。
玉製品は交易用の貴重な品であることに変わりはなく、湖上運輸を担当するだけではなく、交易品の供給も行っていたようです。
【製塩流通の拠点】
岩塩や塩泉のない日本では、土器で海水を煮詰める土器製塩が行われていました。この時に用いられた土器が製塩土器です。製塩土器は塩を作るだけではなく、運搬容器として流通にも使われていました。
また、内陸部に運ばれた塩は、その土器を再び過熱して焼塩(精製)を作っていました。
この製塩土器が滋賀県でも多くの遺跡でつかっていますが、野洲川下流域に集中する傾向があります。
塩の生産にはヤマト王権が大いに関わっていたと考えられており、ヤマト王権とつながりのある野洲川下流域の豪族が塩の精製、流通ルートを握っていたことの証でしょう。
【韓式系土器の分布】
韓式土器とは、古墳時代に韓国南部からもたらされた土器や、そこから日本に移り住んだ渡来人の作った土器のことを指します。
渡来人は新しい技術をもたらし、そこで手工業生産に関与していたと考えられています。そのような渡来人の足跡である韓式土器が野洲川下流域で多く見つかっています。先進的な渡来人の受け入れは、地方の王にとって重要なことで、野洲川下流域は双方にとってメリットのある場所であったようです。
玉造り遺跡
出典:中村智孝
紀要9「近江における玉造りをめぐって」
製塩土器
出典:安土城考古博物館
海と洋を結ぶ湖「命を支えた海の幸」
韓式土器
出典:安土城考古博物館
海と洋を結ぶ湖「海を渡り来た人々」

まとめ
弥生時代に引き続き、野洲川下流域には大きな権力を持った王が存在し、流通拠点となっていました。
ヤマト王権とも密接な関係を保ち、繁栄していました。

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