タイトル
 大岩山銅鐸はミステリーだらけ  【投稿No.田口201911】
大岩山銅鐸に限らず、銅鐸自体がミステリーの多い遺物です。その中でも大岩山銅鐸は不思議なことの多い銅鐸です。
ここでは、大岩山銅鐸のミステリーと近江の銅鐸全般のミステリーについて意見を述べてみます。
はじめに
大岩山の銅鐸は不思議なことが多くミスタリーだらけです。
話を進めるにあたり、大岩山の銅鐸の不思議さについて整理しておきます。
1.近畿式と三遠式の銅鐸が一緒に埋納されている。
複数銅鐸が同時埋納される場合、近畿式銅鐸は近畿式ばかりが一緒に埋納されるか、三遠式も 同様、三遠式銅鐸ばかりが埋納されているのが普通である。
しかし、大岩山では2つの形式の銅鐸が一緒に埋納されており、他では見られぬ状況(例外は1例)である。
なぜ、近江だけが混在して埋納されているのか?
近畿式と三遠式の銅鐸
近畿式銅鐸と三遠式の銅鐸
扁平鈕式の吊り手鐘
飾耳が切り取られた近畿式銅鐸

2.近畿式と三遠式の紋様が混在した銅鐸の存在
素人目には分かり難いが、専門家が見ると、近畿式銅鐸に三遠式の紋様が取り入れられ、三遠式銅鐸に近畿式の紋様が取り入れられたものがある。
1項は、出来上がった銅鐸の使い方・埋納に関することであるが、紋様の混在は銅鐸を造るときに、発注者(近江の首長)が技術集団に指示しないことには実現しない。
意図して製作されており、研究者によっては「近畿式+三遠式銅鐸」と呼ぶ人もいる。
3.双頭渦紋飾耳のない銅鐸は何を意味する?(上図 右)
近畿式銅鐸の特徴は鈕についている大きな飾耳で、素人目にも良く判る。
この飾耳が切り取られている近畿式銅鐸が複数個存在する。埋納するときに切り取ったという見方もある。それなら飾耳が残されている近畿式銅鐸の存在が腑に落ちない。
さらに、切り取った跡がきれいに磨かれていることである。この事実から、使用中に飾耳を 切り取ったと考えざるを得ない。なぜか?
4.聞く銅鐸と見る銅鐸が一緒に埋納されている。
前項と同じく、他所では聞く銅鐸同士、見る銅鐸同士が埋納されており、一緒に埋納されているのは大岩山だけ。
どうして大岩山だけが?
5.大岩山で銅鐸の埋納を3回に分けて行ったのはなぜか?
明治出土の銅鐸と昭和出土の銅鐸(流水紋を除く9個)はどちらの新段階の銅鐸ばかりで、型式にも偏りがない。埋納はどちらも第2段階の弥生時代後期末だが、埋納地が数10m離れていることから分けて埋納されたと考えざるを得ない。
また、流水紋銅鐸だけが離れて単独で埋納されている。3回に分けて埋納したように思える。
なぜ3回に分けて埋納したのだろう?
6.W式新段階(突線鈕)銅鐸の古いものが多く、新しいものが少ないのはなぜ?
他に地域に比べ、古い型式(W式-1〜3)のものが多い。でも大岩山銅鐸には新しいW式-4が一つもない。
ところが、最新のW式-5の最大で最新の銅鐸でかつ銅鐸最後となるものが含まれるのはなぜ だろう?
7.大型祭殿が立ち並ぶ伊勢遺跡とはどんな関わり?
弥生後期、近畿では巨大集落が衰退し大型建物群は伊勢遺跡と下鈎遺跡にしかなかった。
伊勢遺跡から直線距離で5kmと距離的に近い大岩山に多量の銅鐸が埋められた。当然、何らかの関係があると考えられる。ホームページ「大岩山と近江の銅鐸」にも伊勢遺跡との関連を書いたが、細かく見ていくと不思議な関連性がまだ存在する。
8.下長遺跡の飾耳は何を意味するのか?
伊勢遺跡が廃絶された後に最盛期を迎える下長遺跡から、切り取られた畿式銅鐸の飾耳が見つかっている。
銅鐸が破壊された象徴なのだろうか? これまで大切にしていた銅鐸の一部を密かに隠し 持っていたのだろうか?
9.近江で第1段階の銅鐸埋納はあったのか?
大岩山で第2段階一斉銅鐸埋納があったが、近江で、弥生中期末の第段階の銅鐸埋納は あったのだろうか?
10.銅鐸の鋳型の作り方(考察)
11.銅鐸の埋納について(考察)

このようなミステリーを直接に説明できる考古資料はないものの、状況証拠から考えてみようと思います。
東西文化圏をつなぐ近江
先ず、不思議の3項目について考えます。
 不思議1:なぜ、近畿式と三遠式の銅鐸が一緒に埋納されるのか?
 不思議2:近畿式と三遠式の紋様が混在した銅鐸の存在
 不思議3:双頭渦紋飾耳のない銅鐸は何を意味する?

【地形を考える】

近江の地形
近江の地形
(滋賀県文化財保護協会パンフレット 改変)
同じ銅鐸分布圏とは言いながら畿内と東海は異なる文化圏と言っていいでしょう。近畿式銅鐸と三遠式銅鐸は似た要素が多く、2つの銅鐸祭祀圏は相争うような文化対立があるのではないが、双方が独自性を重んじた銅鐸を造り使っていました。
地理的に2つの文化圏の間に位置するのが近江です。
ここで地形を見ることにより2つの文化圏と近江の関係が良く判ります。
近江は高い山地・山脈で囲われており、山地を超えないことには他の地域には行けません。山地に遮られる地域が異なる文化を育むことは自明で、近江が山地に囲まれて独自の文化を育てていたと考えられます。
ただ近江周辺には、山地が低く規模も小さい箇所があり、ここを通って東西の地域と交流が出来ました。
それが南西側ある畿内とつなぐルートと、東側にある東海とつなぐルートです。 これらのルートは、現在の東海道線、高速道路、新幹線がここを通っていることからも判ります。
山地に遮られているとは言え近江は閉鎖的ではなく、「弥生の近江商人」が東西に活動していたことからも、近江が畿内〜東海の2つの文化圏をつないでいたのです。

【2つの文化圏をつなぐ近江がとったやり方】

異なる銅鐸を造りだした異なる文化圏に挟まれた近江はどのような銅鐸祭祀をしたのか?
2種類の銅鐸を採用したのです。上記1項の説明がこの点でできます。
さらに進んで、2つの文化圏の融和を図るため、双方の紋様を取り入れた銅鐸を造ったと考えられます。これが上記2項の説明となります。
おそらく、政治的な必要性に迫られる政治状況があったのでしょう、一見して近畿式とすぐわかる双頭渦紋飾耳を切り取ることを行ったのです。切り取った跡はきれいに磨いて始末をしており、破壊行為とは思われません。
鈕の飾耳
切り取られた鈕の飾耳(明治3号鐸)
【写真提供:天理大学】
それが判るのが天理大学で所蔵している銅鐸です。 近畿式銅鐸ですが、鈕の双頭渦紋飾耳が3個ともありません。飾耳を切り取った跡はきれいに磨いてあります。 しかし、3個の飾耳のうち2個の切り跡が磨いてありますが、1個は切り取ったままで磨いてありません。
磨いてあるのは図中AとBです。磨いてないのはCです。図をよく見るとCの部分は切り取った時に、少し鈕の円弧の中まで食い込んでおり、鈕本体が少し切り取られています。
Cの部分は飾耳の痕跡が無いので磨く必要はありません。
AとBの切り跡は凸凹して少し出っ張っている部分があったのではないでしょうか? その出っ張りをなくすために磨いて、きれいな鈕の円弧の形にしたと考えられます。
この結果、飾耳のない三遠式銅鐸の鈕にそっくりとなりました。
これが上記3項の説明です。
飾耳を切り取った跡を磨いてあるのは、このほかにも昭和の4号鐸でも見られます。
切り跡を安土城考古博物館の方に調べて頂いたところ、3か所とも滑らかに磨いてあるそうです。
鈕の飾耳
切り取られた鈕の飾耳(昭和4号鐸)
【写真提供:安土城考古博物館】

頭頂の飾耳は土台部分が少し飛び出ているが、切り跡は滑らかに磨かれているそうです。
サンフランシスコ美術館の近畿式銅鐸も、双頭渦紋飾耳は3個とも切り取ってあり、写真で見る限り、凸凹はなくきれいな円弧を描いています。
三遠式銅鐸圏(東海地方)との融和を考えた近江の首長が、三遠式に似せるために飾耳を切り取ったと考えざるを得ません。
ただ、双頭渦紋飾耳の付いている近畿式銅鐸もあるので、必ずしも近江の首長全員が同じ加工をしたわけでもなさそうです。
最終的には、2つの銅鐸を統合したW式-5となる最大の銅鐸を生み出すことになるのです。東海もこれをもって三遠式の銅鐸を造ることを止め、W式-5の銅鐸を採用しました。
要は、東西文化をつなぎ融和を図ったのが近江で、それが銅鐸の型式、紋様に現れていて、銅鐸の分布をめぐる不思議を説明することが出来ます。
大岩山の銅鐸は「見る銅鐸」の埋納であった
上記不思議の4項を考えてみます。
何故、近江だけに「聞く銅鐸」と「見る銅鐸」が一緒に埋納されているのか?
結論から言うと、大岩山の銅鐸は全て「見る銅鐸」と考えます。型式だけ見るとW式-1は、一般的には「聞く銅鐸」に分類されるが、大きな社会変革の後、近江では「見る銅鐸」としてこの形式の銅鐸を採用し銅鐸祭祀を再開したと考えています。

「聞く銅鐸」と「見る銅鐸」の境目は?

【境目の定説】
聞く銅鐸と見る銅鐸の境についてもう少し考えます。
聞く銅鐸は新段階 W式−1までで、新段階W式−2以降が見る銅鐸というのが定説です。
銅鐸の研究者の難波洋三さんによれば、W型-2はW型-1に続く形式であるが、開始時期はほぼ同じで、同時並行的に存在していたそうです。W型-1は早々と姿を消しますが、W型-2はしばらく造られます。
そんなことから、聞く銅鐸はW型-2までという方もいます。
一方で、「突線で飾る」行為は見ることを意識しているので、突線型の最初のW型-1は「見るための銅鐸」であるとか、「見て聞く銅鐸」という説もあります。
新段階の近畿式銅鐸は「鳴らす」ことはなかったようですが、三遠式銅鐸は鳴らされた痕跡が残されています。
したがって、「主に聞く」ための銅鐸を「聞く銅鐸」とし、「主に見る」ための銅鐸を「見る銅鐸」として考えを進めます。つまり、当時の人々がどのように使ったのか、ということがポイントなのです。
【これまでの考え方の根拠】
銅鐸は、銅鐸だけが埋められていることがほとんどで、埋められた年代が判りません。しかし複数の銅鐸が一緒に埋められている場合、それら は同時代に使用されていたことが判ります。
このような複数埋納の型式を調べると、下図のようになります。
銅鐸の型式組み合わせ
複数出土銅鐸の型式組み合わせ(福永氏 2010)
出典:「共に一女子を立て」安土城考古博物館 を改変

突線鈕1式(W式-1)は、大岩山を除く多くの遺跡では、それより古い型式の銅鐸と一緒に埋められており、突線鈕2式(W式-2)より新しい銅鐸とは一緒に埋められていません。また、突線鈕3式(W式-3))以上が一緒に埋められています。これらのことから、突線鈕1式までが聞く銅鐸と呼ばれています。
突線鈕2式の埋納は大岩山だけですが、この型式から銅鐸が大型化することから、「見る銅鐸」とされています。
これとは別に、旧各国で使われていた銅鐸の型式を調べた資料があります。
銅鐸の分布
旧国別出土数(型式)抜粋(2004/12/27) を図示化
出典:「銅鐸分布考 型式別分布」 [Web「邪馬台国とは何だろう?」]

「銅鐸分布考」の著者は銅鐸の使用状況から4つのケースに分けて考察しています。
注目するのは、突線鈕1式で銅鐸祭祀を止める国、突線鈕1式は採用せずに突線鈕2式で銅鐸祭祀を止める国があります。一方で、突線鈕2式から銅鐸祭祀を始める国があります。
このケースは数が少ないこともあって、「聞く銅鐸」は突線鈕2式までと考えています。
上でも述べましたが、難波洋三さんは、突線鈕1式と突線鈕2式はほぼ同じ時期に始まり、突線鈕1式が早く終了したと考えています。
【銅鐸祭祀の中断期間と再開を考える】
弥生時代中期末から後期初頭にかけて大きな社会変動があったと、多くの研究者が言っています。
難波洋三さんは、「社会変化は北部九州と銅鐸分布圏を含む広域での出来事であったと推定できる」と、広域にわたる社会変動であったと書いています。当時の倭国全体を揺るがす大きな社会変動です。
この社会変動は何か、諸説があります。
@九州勢力の東進に伴う社会的な緊張(寺沢薫氏)
A鉄の流通による社会勢力のバランス崩れ(福永伸哉氏)
B激しい気候変動(赤塚次郎氏)
私は  C2000年前の南海トラフ巨大地震と大津波 と考えています。
詳しくは 意見の広場「弥生中期をおわらせたもの」に書いているので詳細は略しますが、2000年前(弥生中期末)に、2011年の東日本大震災より大きな南海トラフ地震が四国沖で発生しており、四国・近畿・瀬戸内に大津波をもたらしています。
阪大の福永伸哉さんによれば、この時期に銅鐸祭祀が数10年停滞するそうです。
上の図の、型式別銅鐸の数を見れば、突線鈕1式、2式の時代がこれに当たることは明らかです。
「聞く銅鐸」の鈕の装飾化が進み、突線を施すようになった時(突線鈕1式、2式の時代)、突如大地震と大津波に襲われます。人々は大事な銅鐸を高地に避難(埋納)します。広い地域で同時期一斉に銅鐸が埋納されることがこれでうなずけます。
これが第1段階の多量埋納です。
社会が落ち着いた時に、銅鐸祭祀を止める地域と再開する地域が出てきます。
銅鐸祭祀の中断を考慮して描いたのが下図(右)の銅鐸の変遷です。
銅鐸の変遷-1
銅鐸の変遷(従来)(田中琢氏を改変)
矢印 銅鐸の変遷-1
銅鐸の変遷(中断を考慮)(同左)

いち早く銅鐸祭祀を再開したのが近江です。近江は中段階(V式)までの銅鐸出土数が少ないので銅鐸祭祀の再開というより、新たな銅鐸祭祀を率先して始めたという方がふさわしいかも知れません。新しい銅鐸の中でも初期の突線鈕1式、2式が他の地区よりはるかに多いのです。
銅鐸祭祀を再開するにあたり、新型の銅鐸を造るより、これまであった銅鐸を採用しそのまま造る方が自然です。
「聞く銅鐸」の最終形式、突線鈕1式、2式は、銅鐸祭祀中断の後の「見る銅鐸」の再開でも使われたものと考えます。
大岩山に埋納された突線鈕1式、2式の銅鐸は銅鐸祭祀再開後の「見る銅鐸」であって、大岩山には「見る銅鐸」ばかりが埋納されたというのが私の見方です。
突線鈕1式は「聞いて見る銅鐸」であると言った研究者がいますが、その通りなのです。

大岩山ではなぜ3回に分けて埋納したのか?
大岩山出土地

大岩山銅鐸の出土地
出典「大岩山出土銅鐸図録」
大岩山銅鐸は、三上山(近江富士)の裾野に広がる丘陵地帯の小高い頭頂の斜面で見つかっていますが、数10m離れて埋められています。
@頂上近くに流水紋銅鐸が1個(昭和出土)
Aその下方数10mにW式-1からW式-3までの銅鐸が9個
  (昭和出土、3個ずつが入れ子状態)
Bそこからやや下方で回り込んだところ、距離で数10mの所にW式-1
 からW式-3までの銅鐸11個とW式-5の最大の銅鐸1個
  (このほか2個は詳細不明)
出土した銅鐸の状況について整理すると
@の異形の銅鐸(唯一つの流水紋銅鐸)は単独で埋められていた。
A昭和出土の銅鐸は、銅鐸本体や鰭の欠損が多い。重機を使った
 土砂採取の時に傷が付いたとも考えられるが、埋納時に
 破壊行為があった可能性も捨てられない。
B明治出土の銅鐸は、銅鐸の欠損があまり見られない。明治出土のなかに一番立派な銅鐸がある。

大岩山銅鐸は、弥生時代後期末に実施された第2段階の多量埋納に当たりますが、このような埋納状況から、同時一斉に埋められたのではなく3回にわたって埋められたと考えられます。
きっかけは、銅鏡を採用した卑弥呼政権がこれまでの銅鐸祭祀を破棄するように政治的な指導があったからと言われています。
では、どのような順序で埋納していったのか?
滋賀県教育委員会文化財保護課の細川修平さんが「銅鐸の講演会」で、自分はこう考えるとして話された内容を引用しながら自分の見解も加えて考察します。
1回目【流水紋銅鐸1個の埋納】:野洲地区が近江の中でいち早く埋納に応じた。
当時の人が銅鐸の新旧をどのように感じていたか分からないが、最も古い形式の銅鐸1個をそっと差し出した。様子見があったのかもしれない。
2回目【昭和出土の袈裟襷紋銅鐸9個の埋納】:他の地区と歩調を合わせ、所有する銅鐸をまとめて埋納した。
卑弥呼政権から強い働きかけがあったのだろう。畿内では銅鐸が細かく破砕される傾向が見られるので、「破壊するよう」指示があったのかもしれない。
これまで大事にしてきた銅鐸の破壊には抵抗があり、裾や鰭を少々壊して埋めた。
全地区が銅鐸の廃棄に応じたわけではなく、一部は保有を続けていた。
3回目【明治出土の銅鐸14個の埋納】:さらに強い廃棄指示が出され、全てを埋納した。
  抵抗勢力の銅鐸祭祀を止めさせるため、最大の銅鐸はこの地にやって来た。
という見方も出来そうです。
W式銅鐸の古いものが多く、新しいものがほとんどないのはなぜ?
大岩山には突線鈕W-4式はなく、近江全体をみて初めて1個見つかります。突線鈕W-5式は大岩山の1個だけです。なぜ新しい形式の銅鐸がほとんどないのでしょう?

旧国名 W式-1W式-2W式-3W式-4W式-5合計
紀伊0337417
三河2053212
遠江02212227
尾張002125
近江
(大岩山)
4
(4)
5
(5)
14
(12)
1
(0)
1
(0)
26
(22)
総数1625583317
旧国別・新段階銅鐸の出土数(抜粋 最新型の出土数順)

2項でも述べたように、近江は銅鐸祭祀の再開が早かった分、突線鈕1・2式銅鐸が多く、これに続いて突線鈕3式銅鐸が各集落で採用されていったと思われます。
「見る銅鐸」はご神体のようなもので、1個だけを長くお祀りし、新しいものに乗り換えるようなものではなかったのでしょう。
突線鈕3式銅鐸が各集落に行きわたった後、新しい銅鐸の採用はなくなったと考えれば辻褄が合います。
銅鐸祭祀の再開が少し遅れた遠江は、突線鈕3式銅鐸が一気に採用された、もう一歩再開が遅れた紀州は、最新式の銅鐸(突線鈕4・5式)を採用した、上の表からはそのように読み取れます。
現代でもビルの高さを競い合って、「うちが日本一高い」などと新しいビルのPRをしていますが銅鐸でも同じようなことがあったのかも知れません。
大型祭殿が立ち並ぶ伊勢遺跡とはどんな関わり?
「大岩山と近江の銅鐸」のHPにも書きましたが、この時代、銅鐸祭祀圏で大型建物(祭殿)が立ち並ぶのは野洲川下流域だけで、それが伊勢遺跡と下鈎遺跡でした。この遺跡は「見る銅鐸と共に栄え、見る銅鐸と共に衰退した遺跡」です。
上記HPには、伊勢遺跡が「銅鐸祭祀」の祭殿で、下鈎遺跡が「商業・工業・水運」を祀る祭殿と書きました。伊勢遺跡と大岩山は直線距離で5kmほどです。

【伊勢遺跡の祭殿群と銅鐸】

伊勢遺跡では、直径220mのほぼ円周上に7棟の祭殿が見つかっており、等間隔に配置すれば23棟の祭殿が立ち並びます。これが伊勢遺跡造営時のグランドデザインだったと考えられます。

伊勢遺跡

伊勢遺跡の祭殿跡と推定祭殿
出典「伊勢遺跡発掘調査報告書」を加工

中央の方形区画にも大型祭殿が1棟見つかっています。合計で24棟となります。
この時期に大型建物が存在したのは近畿で野洲川下流域だけです。
大岩山に銅鐸が埋納される直前に、たった5kmの至近距離の所に、これだけの祭殿群が立ち並ぶのは密な関係があったとしか考えられません。
合計24棟の祭殿は、大岩山銅鐸24個と数値的に合い、偶然とはいえ気になることと書きました。
これは筆者だけではなく、この地の弥生遺跡を調べている研究者たちも同じように気になっていることなのですが、考古学的な資料がないため、なかなか言い出せないことなのです。

【実は25個の銅鐸があった大岩山銅鐸】

祭殿と銅鐸の数の検討をさらに進めてみます。
昭和に発見された銅鐸は10個、明治出土の銅鐸と合わせ24個となっています。 しかし、大岩山で銅鐸が見つかった後、近江八幡の金属回収業者が、トラックの荷台に高さ50cmほどの袈裟襷紋銅鐸を吊り下げて廃品回収にまわっていたという複数の方の証言があります(野洲市教育委員会 進藤氏)。現在は個人の持ち物となっているようですが、物が実在します。
時期的に、また銅鐸の大きさ・紋様などから考えて、これが25個目の大岩山銅鐸と考えることもできます。
上に、伊勢遺跡の祭殿は24棟と書きましたが、方形区画には対称的に建物が並んでいたとする考え方があります。そうすると祭殿がもう1棟増え、合計25棟となります。
数字合わせの感がありますが、大岩山の銅鐸の数と、伊勢遺跡の祭殿の推定数は不思議な一致を示すのです。

【異形の祭殿と異形の銅鐸】

祭殿と銅鐸の数だけだはなく、形式でも奇妙な一致があります。
実際に発掘された祭殿(柱穴)の数は7棟分(中央の方形区画に1棟、円周上に6棟)なのですが、円周上の1棟だけが異形なのです。
・独立棟持柱が屋内にある
・円周上の正規の位置から少しずらしている、向きも変えている
・心柱がない

祭殿
     独立棟持柱付祭殿      屋内棟持柱付祭殿(異形の祭殿)
伊勢遺跡の祭殿 (CG:小谷正澄氏)
銅鐸の紋様
銅鐸の紋様 (異形の紋様:流水紋)

一方、出土した銅鐸を見ると、1個だけが異形です。
・1個だけ流水紋銅鐸である(他は全て6区袈裟襷紋銅鐸)
・この1個だけ離れて埋納されている
推測の域を出ないのですが、異形の銅鐸を異形の祭殿に祀ったように思えます。
下長遺跡の飾耳は何を意味するのか?
弥生時代後期から古墳時代早期(卑弥呼政権の時代)に卑弥呼を支えて栄える遺跡が下長遺跡で、伊勢遺跡からは2km弱の所にありました。伊勢遺跡の終末期とも重なっており、一時的には伊勢遺跡と共に栄え、これを継ぐ遺跡であったと考えられます。
下長遺跡の銅鐸の飾耳

下長遺跡の銅鐸の飾(写真:守山市教育委員会)

ここから近畿式銅鐸の飾耳が見つかっています。残念ながらこの飾耳に対応する銅鐸は見つかっていません。
なぜここに飾耳があったのか?
一般論ですが、銅鐸を埋納するときに破壊行為の一環として行われたという考え方があります。
一方、破壊を強いられたものの大事な飾耳を切り取って隠し持っていた、という研究者もいます。
古墳早期の下長遺跡にも独立棟持柱付の祭殿があり、そばを流れる川からは祭祀に用いられた祭器が数多く見つかっています。その一つが銅鐸の飾耳です。破壊された破片ではなく、重要な祭祀としての扱いです。
もう一つ大切なことは伊勢遺跡の祭殿にしかなかった心柱が、古墳時代早期の下長遺跡の祭殿にあるのです。伊勢遺跡が健在であった弥生後期末頃にも、下長遺跡に祭殿があったのですが、この祭殿には心柱は無かったのです。銅鐸祭祀には関わりあっていなかったのが理由でしょう。
古墳時代の下長遺跡の祭殿は、銅鐸の神聖性を示すシンボルと考えられる心柱を伊勢遺跡から引き継いでいるのです。
ここで見つかった飾耳は、破壊を命じられた銅鐸を密かに継ぐシンボルであったと考えます.
近江で第1段階の銅鐸埋納はあったのか?
銅鐸の一斉埋納は弥生時代中期末と後期末の2回あったと考えられています。
近江で第2段階の埋納が大岩山ですが、第1段階の埋納はあったのでしょうか?
近江には聞く銅鐸の出土が少ないので判断が難しいのですが、少数ながら第1段階の埋納があったと考えます。
近江での複数出土は、
・守山市新庄で4個(江戸時代で詳細は不詳、現在1個のみで倉敷考古館所蔵)
・竜王町山面(やまづら)で2個(国博所蔵)
竜王町での埋納が、加茂岩倉銅鐸の埋納に似ている要素が複数あります。
@丘陵地帯の斜面に埋められている
   大岩山の丘陵地帯の続きで三上山のふもとに当たり、大岩山銅鐸とも似た環境
A2個が入れ子になっている

中段階3式-1と-2の銅鐸で、高所で通常人が来ない場所に埋められていました。
小規模ながら、これは、第1段階の埋納と言える状況だと思われます。
弥生時代の銅鐸の作り方について(考察)
弥生時代、銅鐸が大きくなると土製鋳型を使っていました。 現代、土製鋳型で銅鐸を復元製造するとき、次のいずれかのやり方のようです。
方法1:外型用の湾曲した台座を作りその中に真土(まね)を貼り付けて外型を作る。
    外型2個をくっつけて、その中に真土を入れて中子(内型)を作る
方法2:プラスチックや木型で銅鐸の原型を作り、これに真土を貼り付けて外型を作る
    外型2個をくっつけて、その中に真土を入れて中子を作る
これらの方法は、「大岩山と近江の銅鐸」ホームページに詳しく書いています。
方法1は台座を作る工程にやっかいな点があり、方法2は弥生時代にやっていたとは思えません。
当時、大きな壺を作っていました。「ひも作り」というひも状の粘土を円周上に積み上げていく方法で現在でも使われています。
自分も陶芸をやっていたので、「ひも作り」で円筒状の陶器を作るのは簡単です。
この経験から思うには、弥生時代の人々は、先ずはひも作りで中子を作り、次いで中子を方法2のように原型として使って外型を作る手順だったと推測します。
具体的な手順は下図の通りです。

中子の作り方
ヒモ作りで中子を製作(イラスト:田口一宏) [赤の印は次の工程の目印]
この後、
E中子に銅鐸の厚み分の粘土を貼る
Fこれを原型として、外型を作る
G中子の粘土を外し(型持孔用は残す)、中子+外型を組合わせる

現代の再現実験でやられた復元方法(外型を作り⇒これを原型として中子を作る)とは手順が違っています。
中子先行のやり方は、方法1の台座作りは不要で、方法2の原型の役割を中子が果たしています。
弥生時代の人たちにとって、常日頃、甕(かめ)作っているひも作りの方法の延長となり簡単だったと思います。
銅鐸の埋納について(考察)
【第1段階の埋納の理由】
銅鐸の埋納は、大きくは弥生中期末と後期末の2段階があったとされています。
この中間時期にも埋納されたのか? とか、なぜ埋納されたのか? 廃棄なのか? などいろいろ議論されています。
第1段階の多量埋納は、大きな社会変動、それも広範囲で激変であったとされています。
その理由は「2.大岩山の銅鐸は「見る銅鐸」の埋納であった」に書いたので繰り返しませんがこれらの複合的な要因だと思いますが、私は「2000年の巨大地震と大津波」が主たる要因と考えます。
天変地異を恐れた人々が津波の影響を受けない高地へ「避難」させたのでしょう。
桜ヶ丘銅鐸はそれだけではなく、周辺山麓に多くの銅鐸が埋納されており、「避難埋納」で説明が付きます。加茂岩倉銅鐸は山陰地方で津波は関係ないものの、地震の揺れはあっただろうし、畿内からの情報で、高地に埋納したのでしょう。
福永伸哉さんによれば、時々、赤い顔料を振りかけた銅鐸もあって、丁寧に埋められているとのことです。やはり避難のための埋納なのでしょう。
【埋納姿勢】
多くの銅鐸は鰭を上にした姿勢で埋められています。第1段階の埋納と第2段階の埋納でも、広範囲で共通化されています。約180年の年代差のある「埋納姿勢のあり方」を、いかに伝承したのかが不思議です。
この説明として「頻繁埋納説」があります。祭りの時だけ「土中より掘り出し」使い、終わると再び埋納するというものです。この時に、鰭を上にして保存するので代々受け継がれるというものです。
これを否定する説として青銅の「金属光沢」は、古代の人にとって摩訶不思議な魔力を感じるもので、土中に保存して錆びさせるのは考えにくい(寺沢薫氏)、というもので、常日頃は建屋の中に「鰭を上にして安置」していた(水野正好氏)という説です。
個人的には、この説に同感します。
木箱に鰭を上にして治め、それを土中に埋納していた例があり、後者の説を支援しています。
【すり減った紋様】
古い聞く銅鐸は、頻繁に鳴らしていたために内面突帯がすり減っているだけではなく、表面の紋様がすり減って見難くなっているものが沢山ある、と水野正好さんが言っています。水野さんは、それは、布地や皮と銅鐸を一緒にぶら下げ揺り鳴らしていたのでこすれて摩耗したからだろうと推定しています。
これについては、上の節の「金属光沢」を維持するために、常日頃から布や皮で磨き上げていたからだと、私は考えます。
銅鐸の表面の紋様が摩耗するほど丁寧に磨いていたのでは。
蛇足:「聞く」から「見る」への変質
銅鐸が「聞く」から「見る」へ変質したのがなんとも不思議でした。
でも、よく考えてみると現代でも身近にあることなのです。それは「電話」です。
電話(テレ・フォーン)は遠方の人と話をする道具でした。それが今ではスマホ(スマート・フォーン)と呼んでいるものの、基本は「フォーン(電話)」なのです。
電車で周囲を見ると本当に多くの人がスマホと呼ぶ「電話」を見ています。時々指を触れたりして…。知らない人は「見る道具」だと思うでしょう。
銅鐸の変遷と電話の変遷を並べてみるとよく一致します。

銅鐸と電話の変質
銅鐸と電話の「聞くから見るへの変質」(絵:田口一宏)
この変質は、銅鐸では、突線の出現が契機となります。電話では液晶パネルの搭載が契機となります。
そこから「見る」が始まります。
三遠式銅鐸は時々鳴らしていました。スマホも「見る」ことが多いものの、時々は「聞いて」います。

文責:田口 一宏 

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