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下流域の弥生遺跡はこんな遺跡 > いろいろなまつりの道具

 いろいろなまつり・儀礼の道具(銅鐸は別項目)
弥生時代のまつりは地方によって違いがあります。野洲川下流域ではどのようなまつりをしていたのか見てみます。
野洲川下流域を発祥とする独自の祭祀が見られます。
弥生のまつりはどんなまつり?
弥生時代は稲作が始まり、農耕社会として、豊作を願い、収穫を感謝する祭りがあったと思われます。
墓制を見ていても、葬送の儀礼が行われていますし、天変地異の安寧祈願、祖霊祭祀や病気の回復を願ったことでしょう。
古墳時代になると埴輪で儀礼の様子が分かりますが、弥生時代の祭祀の様子は判っていません。
でも、祭りや祈りに使った道具や遺構はいろいろと見つかっています。玉類、銅鐸、鳥形、木偶、特殊な土器などの道具が出土していますし、祭祀の場所と思われる遺構が見つかっています。
銅鐸については別途述べるとして、その他の祭祀具について述べます。
木偶・土偶・石偶
【木偶】
野洲川下流域では、「弥生のこけし」とも言える木偶が見つかっています。
木偶
木偶 【滋賀県教育委員会、守山市教育委員会】 ※サイズを合わせて写真を合成

木偶の出土例は全国で15体で、多くは滋賀県を中心とする近畿周辺です。そのうち9体が滋賀県で見つかっており、中でも野洲川下流域で7体の木偶が出土しました。4体が野洲市の湯ノ部遺跡で、あとは、守山市の烏丸崎遺跡、守山の赤野井浜遺跡、下之郷遺跡で各1体見つかっています。
滋賀県のあとの2体は、野洲川下流域から少し北東にいった大中ノ湖遺跡で見つかったものです。
木偶は全国的にも珍しく、野洲川下流域で木偶を祀る特別な祭祀があったと思われます。
【木偶の特徴・大きさ】
木偶の表情 木偶は頭、首、胸がはっきりしていますが、手足はありません。腰のくびれがはっきりしているものが多いです。縄文時代の土偶とは違って、女性の性徴は表現されていません。一方、男性は腰部に穴を開けそこに男性のシンボルとして棒を挿したものが出土しています。男女一対で使って「子孫繁栄」を 願ったのかも知れません。   顔面には、目と口が掘り込まれています。                その表情は、無表情か微笑んでいるように見えます。なんだか仏像に似た感じです。 野洲川下流域で見つかった木偶のサイズは、最小が約20cm、最大が約70cmです。下之郷遺跡の木偶は 胸部より下が折れていますが、他の木偶より推定すると、全長がおよそ63cmくらいになります。 木偶祭祀
【木偶の出土状況】
下之郷遺跡の木偶は環濠の底から出土しましたが、他の木偶は、方形周溝墓に絡んで出ています。
烏丸崎遺跡、赤野井浜遺跡では方形周溝墓の溝から、湯ノ部遺跡では方形周溝墓に関連する祭祀の場と思われる区画から4体が一緒に見つかりました。葬送儀礼に関連があるのか、または、木偶を副葬品として埋めたのか? いろいろな状況が考えられます。
方形周溝墓からは共献土器が出土することから考えて、右図のような祭祀が想像できます。
【木偶の出土状況】
土偶・石偶 守山市の小津浜遺跡から弥生時代の土偶が見つかっています。頭と手足のほとんどが欠落していますが、手の一部が残り、他の手足の痕跡が見られます。残されている部分は約4.4cmで板状です。 縄文時代の土偶は魅力に富んだ形状ですが、この土偶は非常にシンプルで す。弥生時代になると土偶はほとんどなくなるので、この土偶は珍しく貴重なものです。
また守山市の赤野井浜遺跡では、直径4cmの丸い石に目と口を掘り込んだ石偶が見つかっています。
これらの土偶や石偶は、当時の弥生人がまだ縄文の祭祀を行っていた名残りだと解釈されています。
木製の祭祀具
土偶・石偶
【朱塗りの盾】
下之郷遺跡で見つかった盾は、防御用の実用的な盾のようですが、守山市内のいくつかの遺跡で見つかる盾の多くは、多数の穴が整然とあけられています。糸を通して盾を縛り、強化するとともに装飾の役目も果たしていたようです。
弥生時代の終わりごろになると朱塗りの盾になってきました。このことは、実用の盾から儀式用の盾に変化してきたことを示しているようです。建物の飾りとして守りのシンボルとしたり、何かの儀式に使ったものと考えられます。
鳥形木製品
【鳥形木製品】
鳥形木製品は鳥を模した形代(かたしろ)の一種です。空を飛ぶことができる鳥は、遠方の祖先の霊や穀物の精霊を迎え入れることができる力があると信じられていたようです。 集落の入り口やはずれなどに竿や棒の先につけて飾られたようです。
【木製剣】
木偶の見つかった烏丸崎遺跡の周溝墓溝から、剣をかたどった木製品が出ています。葬儀の儀礼に使ったものでしょう。
手焙(てあぶり)形土器
手焙型土器
【手焙型土器とは】
弥生時代後期に、近江型土器の鉢の上に覆(おおい:フード)が付いた、後世の手焙り用火鉢に似た土器が出現します。その形状に由来して手焙形土器と呼ばれています。 弥生時代後期から古墳時代前期という変動の大きな限られた時期に普及した祭祀用と考えられている土器です。
特異な形で出土数も少ないことから、正確な用途が何か分からないのですが、覆いの内面に煤が付いているものが出土しており、何かを燃やして使うことがあるのが分かります。
【手焙型土器の分布】
出現期には、野洲川流域と大和・伊賀地域で多く見られます。いずれも近江型土器の上に覆いが付いたものですが、口縁部の形状の違いにより、前者をB型、後者をA型と呼んでいます。これがびわ湖周辺、近畿、東海へ広がっていきますが、盛行期には、野洲川流域で使われているB型に統一されていきます。その後東日本、西日本に拡散していきます。近江型土器の形状が基本になっていることから、発祥は野洲川流域と考えられています。
手焙型土器の分布
出土する場所は住居や墓が多いようで、とくに弥生の終わりから古墳時代にかけては、墳墓に埋葬されたり、墳丘上の儀式に使われたりしたようです。出現期には野洲川下流域の儀式や祭礼に使われ、広域に拡散した後には葬送儀礼に使われるようになったのかもしれません。
古墳時代に変わってから、手焙形土器は消えてゆきます。
導水施設
【導水施設とは】
導水施設は、古墳時代の遺跡、例えば、纒向遺跡や守山市の服部遺跡などの重要な集落遺跡から発見されています。井戸や川から水を引き入れ、貯水した後、ろ過した上澄みの水を流す構造となっており、木樋をつないで水を流す構成になっています。
導水施設を模した、囲形埴輪がいくつかの古墳の祭祀域から出土しています。建屋の内部に導水施設を設け塀で囲った構造で、首長の水の祭祀(聖なる水を得る)に深く関わるものと言われています。 したがって導水施設のある集落は、大きな力を持った首長がいたところと言うことになります。
このような導水施設の先駆けとなる遺構が、弥生時代中期の下鈎遺跡、後期の伊勢遺跡から見つかっています。本格的な導水施設は古墳時代から・・・と言われており、野洲川下流域で見つかった弥生時代の施設が、古墳時代と同じ目的・意義であるのか、考古学的には議論が分かれると思います。
浄水施設とか流水施設などの表現を用いることもあるようですが、ここでは「導水施設」で統一します。
【下鈎遺跡の導水施設】
水源は発掘範囲の外であり判っていませんが、自然流路が付近にないので、恐らく水源は井戸であると考えられます。
溝を通って土坑に導かれた水は、2つの溝に分かれて下流へと流れます。土坑内での水処理については判っていません。土坑自体は掘立柱建物で覆われ、古墳時代の導水施設に似ています。
溝Uから区画溝に流れ込むあたりで、小銅鐸が見つかっています。他の同様施設でも祭祀に用いた小銅鐸の事例があり、下鈎遺跡で見つかった小銅鐸も祭祀に関わるものと推測されます。
【伊勢遺跡の導水施設】
伊勢遺跡の導水施設では、自然流路より水をとり込んでいます。取り込んだ水は砂と矢板で固定された芦藁(あしわら)の束で浄水されます。この遺構がはっきり残っていました。
浄水された水は下流へ流れますが、発掘範囲外で詳細は判っていません。
下鈎遺跡の施設と比べると、浄水部の大きさは余り変わらないものの、流路の長さが大きく違っています。また、浄水部を覆う建屋は見つかっていません。

導水施設
導水施設(下鈎遺跡)【栗東市教委】

導水施設
導水施設(伊勢遺跡)【守山市教委】

野洲川下流域では、古墳時代の服部遺跡で導水施設が見つかっており、野洲川下流域は時代を通して、祭りごとを行う首長がいたようです。
まとめ
野洲川下流域では、この地方独特の木偶祭祀をしていました。また、独特の形をした手焙形土器の発祥の地とも言えます。まつりの独自性は、それだけ自立して周辺をまとめていく力があったからではないでしょうか?
古墳時代の聖なる水の祭祀の原型とも見なされる、導水施設が見つかっていることからも力・権威が 感じられます。


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