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下流域の弥生遺跡はこんな遺跡 > 弥生の米つくり

 弥生の米つくり
野洲川下流域でどのように米つくりが始まり、どのような遺構・遺物が残されているか見ていきます。
同じような米つくりの光景は日本のいろいろな所で見られますが、ここは、日本で最大の淡水デルタ地帯であり、広範囲に広大な稲作が行われていたようです。
弥生文化一式として伝わった水稲農作
米つくりは九州から東へ伝播していったのですが、単に種籾だけがもたらされたのではなく、土器や必要な木製農具、農具を作るための石器などと一緒に、一式が新しい弥生文化としてもたらされてきたのです。
西日本一帯の弥生前期の遺跡では「遠賀川(おんががわ)式土器」が見つかります。この土器は初期の水田稲作が西から東へと伝えられた指標と見なされており、西日本の弥生前期土器の総称としてつかわれるようになっています。つまり遠賀川式土器が見つかった遺跡は稲作文化を受け入れ、米つくりが始まったと解釈されます。
石器は縄文時代から使われていましたが、水耕稲作と共に伝わった石器は大陸系磨製石器と呼ばれています。石器の表面が丁寧に磨きあげて製作されています。いろいろな加工方法や作業に対応した石器が造られており、稲作や農耕具作りに適していました。
縄文時代の石器は原石を打ち欠いて作った打製石器で、表面は打ち欠いたままの粗い状態です。
遠賀川式土器
遠賀川式土器(小津浜遺跡)【滋賀県教委】
磨製石器
磨製石器と打製石器(服部遺跡)【守山市教委】
野洲川下流域での米つくり
【米つくりの証拠 遠賀川式土器】
野洲川下流域の遺跡では、栗東市の霊仙寺遺跡で、近江で最古と考えられる遠賀川式土器が見つかっており、この地区で最も早くから水耕稲作が始められたようです。草津市の烏丸崎遺跡でも最古級の土器が見つかっており、ここも初期から水耕稲作を始めたようですが、弥生初期の終わり頃に生じた大地震によって生活の痕跡が無くなってしまいます。烏丸崎遺跡はびわ湖畔にあったため、土地の液状化現象や水没の被害を大きく受けたようです。
野洲市の湯ノ部遺跡でも古い型式の土器が出ており、守山市の服部遺跡、小津浜遺跡、中島遺跡でも遠賀川式土器が出土しています。弥生初期、水耕稲作が急速にこの地で広範囲に始まりました。
【水田跡】
水稲耕作の直接的な証拠となるのは水田の跡ですが、守山市の服部遺跡で前期の水田跡、中北遺跡で後期の水田跡、野洲市の木部遺跡で前期の水田跡が見つかっています。
服部遺跡ではとくに大規模な水田跡が見つかっており、水田の数は260面ほど、約2万uに及びます。 水田跡の東西側は古墳時代の大きな川で押し流されており、当時はもっと広い水田域であったと思われます。さらにその外側は未発掘で、ここにも水田が広がっていた可能性があり、見つかった水田跡の数倍の面積の水田があったのかもしれません。

服部遺跡の水田跡
服部遺跡の水田跡 出典:「國」淡海に建つ
小区画水田跡
小区画水田跡(服部遺跡)【守山市教委】

水田のある場所は、稲作初期に使われたフラットな湿地帯ではなく、やや傾斜があって水の給排水管理が必要とされる所です。このため、水田は畦畔(あぜ)によって細かく区切られています。あぜによって区切られた水田の広さは、小さいもので10uほど、大きいもので180u程度で、全体に小さな区画の水田でした。
中央部にあぜで仕切られた大きな溝があり、その他にもあぜによって区画された用排水路が設けてありました。水を全ての田に均等に回すための工夫が盛り込まれています。
大規模な土地開墾をせずに地形に沿って水田を作り、灌漑(かんがい)に工夫を凝らした、ある程度稲作技術が進展してからの水田遺構と考えられます。
米つくりの直接的な証拠としては、炭化米が霊仙寺遺跡、小津浜遺跡や下之郷遺跡で見つかっています。
木製農耕具
米つくりに必要な農耕具は、それを作る大陸系磨製石器と共に導入され、木製農具が実に多くの遺跡から出土しています。
赤野井湾湖底遺跡では、水底から腐敗を免れた木質遺物が大量に見つかっており、調査整理を行い実測した4000点以上の木製品のうち355点が農具であったとの報告があります。中でも鋤(すき)が1/4を占めていたそうです。
守山市の下之郷遺跡の環濠からも多くの木製農具が見つかっています。土を掘り起こす鋤(すき)や鍬(くわ)、脱穀に使用する竪杵(たてぎね)などが出土しています。
農具

鋤は目的に応じていろいろな形のものが工夫して作られていました。
鍬を使って土を耕す時に、跳ね返る泥を防ぐための泥除けもありました。 田んぼに入ったとき沈み込まないように田下駄をはいていました。
農具

土の塊をほぐしたり、水田の土を平らにしたりする叉鍬(またぐわ)もあります。
土や草を均すために使ったと思われる曲柄鍬(まがりえぐわ)も使っていたようです。
農具

実った稲は穂だけを木包丁や石包丁で摘み取っていました。 摘んだ穂は、食べる時に必要量を臼に入れ竪杵で搗いて脱穀します。
農具

収穫の時に用いたのでしょうか、荷物を背中に担ぐときに便利な背負い板も出土しており、それを背中に密着させるための固定棒も出ています。
ここの稲作の何がすごいか
【灌漑技術がわかる広大な水田】
服部遺跡は弥生時代初期の水田で、発見された面積をみると、静岡県の登呂遺跡、岡山の百間川遺跡群、いずれも弥生時代後期の水田跡の面積に続く広さです。ただ、水田跡の図から判るように、古墳時代の河道によって水田が破壊されていること、また、放水路建設の範囲外にも当時の水田が広がっていた可能性もあります。
このことを考え合わすと、弥生時代には、いま見つかっている水田の数倍の広さで稲作が行われていたかもしれません。弥生時代では屈指の面積の水田であったと思われます。
低湿地の平野に一つの面が広い水田を作るのに比べ、ここの水田遺跡は、緩斜面に小さな田を多く作り、水を均等に配分し、排水するための工夫、当時の灌漑技術がわかる貴重な遺構です。
【まだ黄色い籾】
下之郷遺跡の井戸から黒や褐色の籾に交じって、今穫れたばかりのような黄色いままの籾殻が含まれていました。炭化していない米粒のDNA鑑定行ったところ、これまで定説であった温帯ジャポニカだけではなく、中に「熱帯ジャポニカ」が混じっていました。東南アジアから海を渡って熱帯ジャポニカが伝わってくるルートがあったと考えられます。
また、複数の種類のお米が同じ場所から見つかったということは、まだ稲作技術が未熟だった当時、稲が一斉に気候や害虫などの被害を受けるリスクを避けるため、異なる種類の稲を同時に植えていたのでしょう。

出土した籾
出土した籾(下之郷遺跡)【守山市教委】
まとめ
西から伝えられた水稲耕作が、野洲川下流域でも大規模に行われ、その遺構や農耕具などの遺物が多量に見つかっています。まだ、黄色い籾が見つかり、DNA分析の結果、当時の稲の種類が判ったことは画期的なことです。

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