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下流域の弥生遺跡はこんな遺跡 > 環濠集落の盛衰

 環濠集落の盛衰
弥生時代の集落構成の特徴として、深い濠(ほり)で囲まれた環濠(かんごう)集落があります。稲作の開始と共にお米をめぐる争いが生じ、防御のために環濠が掘られたと言われています。野洲川下流域でも多くの環濠集落が造営されました。その盛衰を見ていきます。
環濠集落とは
環濠集落とは、濠を集落の周囲全体または一部にめぐらせた集落で、水稲農耕とともに大陸からもたらされたと考えられています。 遠賀川式土器
弥生時代には九州地方から関東地方まで各地に分布しており、弥生時代の典型的な集落の形と言えます。九州の吉野ヶ里遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡は30万uを超える大きな集落です。中規模の集落は大阪の池上曽根遺跡や東海の朝日遺跡などがあります。小規模なものでは1〜3万uの環濠集落もあります。
しかし、2世紀後半から3世紀初頭には、環濠集落が各地で消滅していきます。この時期に、政治的状況が大きく変わったことを示すものとして考えられています。
環濠集落には、断面が深くV字形に掘削された環濠やその周辺に逆茂木(さかもぎ)と称されるような先を尖らせた杭を埋め込んでいる所もあって、他の集落や勢力から防御することが目的であったと考えられます。 また、大規模な集落の多くは長期間継続しており、首長の居宅や祭祀用の大型掘立柱建物があり、遠隔地との交流物品が出土することなどから、政治・経済に強く関わる集落であり、周辺の拠点集落であったと考えられます。
環濠は、防御することが第一目的であったことは間違いないと思われますが、では、実際に戦争があったかというと、見方が分かれるところです。
野洲川下流域の環濠集落
近江地方でもいくつかの環濠集落が見つかっていますが、多くが野洲川下流域に出現しました。 環濠集落
【下之郷遺跡】
弥生中期まだ早い頃、野洲川と境川(推定)に挟まれた扇状地近くに、最初に誕生したのが下之郷遺跡です。
幅の広い環濠が3条〜6条、集落のまわりに並行して巡っている多重環濠集落です。環濠内の集落は、東西330m、南北260mの大きさで、面積はおよそ7万uにおよびます。 外周辺にも環濠が見つかっており、ここまで含めた遺跡全体の規模は約25万uとなり、弥生時代中期の集落としては県下最大、全国でも屈指の規模を誇ります。
下之郷遺跡からは他では見られぬユニークな遺物がいろいろ出ており興味深い遺跡です。建物も先進的な建物が多い一方で、当時の一般的な竪穴住居が1棟も見つかっておらす、不思議な遺跡でもあります。

下之郷遺跡の詳細は、独立した節で記します。 ⇒こちらから
【播磨田東遺跡】
しかしながら、150年程経過すると、下之郷遺跡の環濠が埋まり始めます。下之郷遺跡が衰退し始める頃、その東側に播磨田東遺跡が環濠集落として出来上がります。
ここでは、1条の環濠が見つかっており、直径は約300mと推定されています。播磨田東遺跡は古墳時代まで続きますが、環濠は弥生時代中期後半にはなくなります。
【ニノ畦・横枕遺跡】
播磨田東遺跡の環濠がなくなる頃、南側にニノ畦・横枕遺跡が出現し、やはり環濠集落となります。
1条〜2条の環濠が東西400m、南北550mの規模で広がっていたようで、これまで日本で見つかった環濠集落の中でも規模の大きいものです。集落内部からは多数の竪穴住居、掘立柱建物、井戸、土坑などが見つかっており、当時の典型的な集落(ムラ)だったようです。中には、直径が15m以上になる超大型の竪穴建物や10mを超える竪穴住居がが集中しいる場所があり、身分階層が生じるとともに住居区域も区別されていた集落と考えらえます。
弥生時代中期末から後期初頭にかけて、近畿地方の遺跡から石器が無くなり、かわりに鉄器が出土するようになります。ニノ畦・横枕遺跡でも同じ傾向がみられ、鉄製の鏃などこれまで見られなかった鉄製品の出土が確認されます。
また、この遺跡から見つかった2基の井戸から板を組み合わせた木枠が出てきました。

環濠集落
保存状態の良い3枚の板の木目の年輪分析により、これらの板が伐採された年代が紀元前60年、同97年が二枚と判りました。出土物の実年代が判る貴重な資料で、弥生時代中期の実年代の見直しにつながるものです。
【下鈎遺跡】
玉・腕輪その頃、境川を隔てた栗東市の下鈎遺跡にも環濠集落が現れます。環濠は幅1.3〜3.5m、深さ0.5mで、直径が約400mにおよぶものと推定されています。
掘立柱建物や竪穴住居からなる居住区、覆屋(おおいや)と考えられる建物の中に導水施設が見つかっています。そこでは集落の長が水にかかわる祭祀をしていたと思われます。
ここからは、祭祀に使ったと思われる日本で最小の銅鐸が出土していますし、鋳造銅製釧、勾玉や管玉など威儀具となる玉類が出ています。
弥生中期の終わり頃、境川を挟んで大きな環濠集落、ニノ畦・横枕遺跡と下鈎遺跡が栄えていたことになります。
出土物から考えると、ノ畦・横枕遺跡は住宅地域、下鈎遺跡は政治祭祀と青銅器生産の地域と考えられます。

下鈎遺跡の詳細は、別の節で記します。 ⇒こちらから
【山田町遺跡】
弥生中期末にはニノ畦・横枕遺跡が無くなりますが、その頃に3条の環濠を持つ山田町遺跡が現れます。
3条の環濠の一部しか発掘されておらす、規模や集落の様子はよく判っていません。外側の環濠の円弧より直径300mを超える規模と推測されます。後期中頃にはこの集落もなくなります。
【服部遺跡】
最後に現れるのが、服部遺跡の環濠で弥生後期初めに掘られたものです。
さらに後期中頃には、約200m下流に幅8m、深さ2mもある溝にかこまれた直径110mの環濠集落ができました。これも後期後半には多量の土器を環濠内に廃棄して埋もれてしまいます。
【主な環濠集落を比べてみると】
下之郷遺跡、ニノ畦・横枕遺跡、下鈎遺跡の集落規模を図に示します。

環濠集落の比較
野洲川下流域の主要環濠集落の比較(等縮尺で表示) 出典:守山市遺跡発掘調査報告書を基に制作

3つの環濠集落を比べていますが、下之郷遺跡の多重環濠が等間隔で並行して集落をめぐっているのが、目立ちます。3条〜6条の環濠のさらに外に外周環濠があったのか、現在の発掘状況からは判断できませんが、存在していた可能性は捨てきれません。下之郷の後に現れたニノ畦・横枕遺跡の環濠や下鈎遺跡の環濠は発見されている溝が少なく、完周しているのかどうか不明な所が残りますが、1条だけながら非常に大きい環濠です。
1条だけの環濠というのは、時代の推移で環濠を作る目的が違ってきたのかも知れません。防御のための環濠から区画溝のようなものに変わってきた可能性が考えられます。
ニノ畦・横枕遺跡では、集落内に80棟以上の竪穴住居をはじめ掘立柱建物が見つかっています。下鈎遺跡でも同じく竪穴住居がありました、しかし下之郷遺跡では、環濠内に竪穴建物が1棟もなく大型建物しか見つかっていません。下之郷遺跡が他の遺跡と比べて大きく異なるのはこの点で、下之郷遺跡の役割が特殊であったことが推測されます。
他地区の環濠集落と比べてみると
野洲川下流域の環濠集落が他の大型環濠集落と異なるのは、集落の寿命です。ここでは100年〜150年の期間で衰退していきます。
吉野ヶ里遺跡も池上曽根遺跡、唐古・鍵遺跡、朝日遺跡も、弥生前期から後期まで続くのに、野洲川下流域の環濠集落は短期間で移っていくのが特徴です。それも直ぐ近くに移動しているのです。暴れ川と言われる野洲川、沈みゆくびわ湖、頻繁に生じていた大きな地震、それらが環濠集落の盛衰に影響していないでしょうか?
まとめ
野洲川下流域でも多くの環濠集落が生まれました。吉野ヶ里遺跡の特大環濠を別にすれば、野洲川下流域でも他の大型環濠と同じような規模の環濠集落が出現しました。
他の大型環濠集落と異なるのは、集落の存続期間で、野洲川下流域では短期間で盛衰・移動しています。
2世紀後半から3世紀初頭には、環濠集落が各地で消滅していきますが、ここでも同じ時期に環濠集落が消えていきます。

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