タイトル
 伊勢遺跡を造った力の源泉は?  【投稿No.田口201601】
弥生時代後期末、野洲川下流域は東海・近畿を統括する大きな勢力の中核となり、伊勢遺跡となる巨大な祭祀空間を造営しました。ここが卑弥呼共立の場となった・・という見方があります。
なぜここに、これだけ大きな力を持つ勢力が生まれたのでしょうか?
その力の源泉はどこにあるのでしょうか? それを読み解いていきます。
はじめに
弥生時代後期、魏志倭人伝によれば、この時期の倭国に30余の国があった頃です。
近畿地方の大きな拠点集落が衰退して小さな集落に分散していく中で、突如、野洲川下流の左岸に巨大な祭祀空間が造営されます。この地域には、伊勢遺跡だけではなく、近くに下鈎遺跡、下長遺跡が同時に存在し、いずれの遺跡からも大型建物が見つかっています。その総数は17棟に及びます。
その多くは祭殿と考えられる建物ですが、伊勢遺跡の中央部、方形区画にはマツリごとを行なったと考えられる建物群があります。この時期にこれだけ多くの大型建物が見つかるのはここだけです。
このことから,野洲川下流の左岸域を中核とする國があったことは容易に推測できます。
巨大な祭祀空間が造営されたことは、発見された遺構から分かりますが、では、誰が、何を目的として造営したのか・・という疑問が残ります。また、巨大な祭祀空間を築く大きな力を持った勢力が、なぜここに生まれていたのか・・ということも気になるところです。
遺跡の全体
伊勢遺跡の建物(復元想像図)
【後ろは三上山(近江富士)】
(CG制作:MKデザイン 小谷正澄氏)
これらのことを解くための直接的な遺物、古文書などは見つかっていません。 このことは伊勢遺跡に限ったことではなく、考古学者は、中国の古文書や遺物の分布や時間的な変化や変遷、遺構の規模や構成、存続した期間などから、遺跡の成り立ちや性格、歴史的意義などを推測していきます。
伊勢遺跡については、上に書いた事柄の関連情報が、この「野洲川下流域の弥生遺跡」ホームページの各所に断片的に述べられています。上の「なぜ?」に沿って読み解いてみました。
誰が何のために?
この疑問に関しては、「野洲川下流域の弥生遺跡」ホームページの「銅鐸祭祀を統合した近畿政権」に詳しく書かれています。

誰が?

野洲川下流の左岸域(簡単のため「近江南部」と表現することもある)を中核とする國があり、銅鐸祭祀を通じて近畿一円から東海、中国地方・四国の一部を統合していたと考えられています。これを構成する国々は緩やかな連邦制をとっており「近畿政権」とか「原倭国」などと表現されています。
中国の後漢書には、西暦107年に「倭国王帥升等」が「遣使奉献」したと書いてあり、当時の倭国には「王」が居たことが判っています。 このことから、近江南部にあった国の王が、近江富士とも呼ばれる聖なる三上山を望むこの地に伊勢遺跡を造営したと考えます。具体的に誰だったのか? は判りません。
先ほど書いたように、西暦107年に倭国王帥升がいました。魏志倭人伝には「男王が70〜80年統治したが国が乱れ、卑弥呼を共立した」とあり、梁書には「西暦178〜184年の間の数年間、倭国が乱れた」と書いてあります。
「誰が?」 の一つの可能性として、倭国王帥升がこのあたりを統治し、初期に伊勢遺跡造営を始めた・・という見方もありますが、意見の分かれるところです。

何のために?

続いて「何のために?」ですが、銅鐸の変遷読み解ける「銅鐸祭祀の統合」から推測できます。
弥生時代中期10系列以上あった「聞く銅鐸」祭祀が終わり、後期には「見る銅鐸」祭祀が始まります。この時、銅鐸祭祀を続けたのは5系列の銅鐸を持ちいる国々でした。これらの銅鐸もやがて、近畿式と三遠式の2系列に統合され、最終的には近畿式銅鐸にまとまります。銅鐸が統合される経過は詳しく研究されているものの、統合時期については漠然としています。ただ、マクロに見ると5系列の銅鐸が2系列に統合される時期と伊勢遺跡造営がうまく重なっているように見えます。
すなわち、銅鐸の統合をきっかけとして共通の祭祀空間を、統合を主導した近江南部に造営した・・という考え方です。それぞれの銅鐸祭祀をおこなってきた國の王達が、伊勢遺跡の円周上に自分たちの祭殿を建てたのではないのでしょうか。

野洲川下流域の力の源
次いで、なぜ野洲川下流域に一大勢力が生まれたのか? その力の源は何か? という疑問です。
これは、伊勢遺跡の時代だけではなく、弥生時代初期から読み解いていく必要があります。
時代を追って見ていきましょう。

時代を通しての大きな力

時代を通して言えることは、この地域のもつ「大きな地の利」です。
【びわ湖と野洲川の恵み】
・初期の水田経営に適した広大な土地
  野洲川はびわ湖に注ぐ河川の中で最大の川で、びわ湖岸に巨大な淡水三角州をつくりました。
  淡水三角州としては日本最大です。まだ、灌漑技術や稲作技術が未熟だった頃、この三角州は初期稲作に適しており、
  しかも広大な面積を有していました。
・稲作と漁撈の兼業
  初期稲作は気候変動やびわ湖の水位変動などの影響で米の収量が影響されたことでしょう。
  しかし、この地はびわ湖からの恵みがあり、稲作と漁撈の兼業が可能でした。春にはフナの大群が川を遡上し田に
  産卵しました。出土する遺物からこのことはよく判ります。
  食に関しては恵まれた環境でした。
【恵まれた気象条件】
近江は、びわ湖の東側に平野が広がり、全体が大きな山系に囲まれた、いわば大きな盆地となっています。この地形のお陰で台風や大雪などの勢力は弱まり、穏やかな気象となっています。
このため、住環境も稲作・畑作にも好都合でした。
【交通の要所】
・瀬戸内海〜びわ湖〜日本海ルート
弥生時代は近畿・西日本は照葉樹林に覆われており、陸路の交通、輸送には困難を伴いました。
こんな時、瀬戸内海〜淀川(瀬田川)〜びわ湖の水上交通は、とても便利な交通・輸送ルートでした。
びわ湖北部からは、少しの山越えで日本海側まで抜けることができます。
びわ湖には多くの川が流れ込んでおり、川から〜びわ湖ヘ〜川ヘというルートで内陸側も結ばれていて近江平野全体が交通の便の良い所でした。
・西日本〜東日本の結節点
戦国時代、「近江を制する者は天下を制する」と言われたように、近江は西日本、東日本、瀬戸内、日本海側を結ぶ交通の要所でした。それは、現在の鉄道網を見ても分かります。
もっとさかのぼって律令制度の時代に整備された「七道駅路」と言われる古代の道も、近江と山城の国の境で結節点を作っていました。官道が整備される以前、水上交通が主体の時には、瀬田川とびわ湖がつながる近江南部が東西交通網の結節点になっていたと考えます。
古代の道
淀川と古代の幹線道路
(淀川水系は強調して太く描いています)
ここに述べた地の利が、後々の近江南部の力の基盤になったと言えます。

弥生時代前期の力

弥生時代前期(服部遺跡の時代)、近江南部にはどのような力の源があったのでしょうか?
【米は力なり】
広大な水田面積
この時代、一番重要な生産品は「米」でした。
米だけで食糧は賄えるほど多く作れなかったと言われていますが、主食であったことは間違いないでしょう。どれだけ多くの米を生産できるか? その量がどれだけの人を養えるか、に直結します。
米の生産量は、その地域が持つ力の指標であったと言えます。
弥生時代の米の生産量そのものは判らないので、水田面積を調べてみます。
日本の各地で弥生時代の水田跡が見つかっています。
野洲川下流域の服部遺跡では、弥生前期の地層から約2万uの水田跡が出てきました。
服部放水路と遺跡
服部放水路と遺跡 【守山市教委】
服部遺跡水田跡2
水田跡と後世の破壊
図から分かるように、水田跡は後世の川によって破壊されています。弥生時代中期の方形周溝墓によっても破壊されており、当時の水田面積はもっと広かったでしょう。 発掘できなった堤防盛り土の下にも水田が広がっていた可能性があります。
このようなことを考えると、さらに数倍の広さの水田域であったと推測されます。
弥生時代後期の日本では、岡山の百間川遺跡で4万u、静岡の登呂遺跡では7万uの水田が確認されていますが、弥生前期の服部遺跡は日本一の水田規模であったと思われます。

総水田面積の推測
遺跡から見つかる水田跡はほんの一部だけです。
弥生時代の水田面積をどのようにして推測するか?
千城 央さんは著書「近江にいた弥生の大倭王」の中で、律令制の国単位の水田面積を基に考察しておられます。
弥生時代後期と平安時代で、各国の水田の広さは異なるものの、國間の相対比較には大きな違いはないだろうという前提で、平安時代の和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)記載の田積数を基に各国の水田広さと戸数を考察されています。
戸数の推定に当たっては、既に所在地が比定されている国(伊都国、奴国)の田積数と魏志倭人伝に書かれている戸数を基にして計算されています。
ここで先ず、水田面積を考えます。図は和名類聚抄の各国の田積数を示します。
近江がずば抜けて広い水田を有していたことが判ります。
ただ、西暦900年台のデータと弥生時代を比べることの意味を考えておく必要があります。
寺沢薫さんの「日本の歴史『王権誕生』」によれば、木製農具は弥生時代を通して用いられ、耕作農具の進展はそれほどなかった、とのことです。
近世の機械化農機具が出るまでの人力による耕作では、生産量は緩やかな増加をたどり、和名類聚抄の各国の田積数に劇的変化はなかったと考えてよいようです。
このことを検証するために、1598年の豊臣検地のデータを見てみます。 平安時代には田積数が少なかったが、豊臣時代に大きく石高を増やした国が尾張や三河で見られますが、各国の相対的な米の生産量はあまり変わっていません。
ということで、和名類聚抄の田積数が弥生時代の水田面積の比較のために適用できそうです。
すなわち、弥生時代、近江は群を抜いた米生産地であったと言えます。
田積数
和名類聚抄の田積数(千町)

豊臣検地
豊臣検地の石高数(万石)
【労働生産力】
多くの米がとれる・・ことは、多くの人を養えると言うことでもあります。
初期水耕稲作に適した広大な土地を有するこの地域には、多くの人が生まれ、集まったことでしょう。
労働人口が多ければ、そのこと自体が地域の力になります。
土地に余裕があれば、争いごとも少ないし、気象条件にも恵まれ、この地は豊かな場所でした。
多くの米があれば、交易に来た各地の商人にも提供出来るので、交通の要所としての機能を充分発揮できたと思われます。

これまで見てきたように、弥生時代前期のこの地の力は「米の生産量」と「多くの人口」と言えます。
このことが、後々の力の醸成に働いてくるのです。

弥生時代中期の力

次いで、弥生時代中期(下之郷遺跡の時代)にはどのような力の源があったのでしょうか?
【玉は財力なり】
近江では、弥生時代中期初めから中期末にかけて、玉作りに関連した遺跡が多く見つかっています。これらの遺跡は湖北、湖東、湖南と広い範囲に渡っていますが、とくに野洲川下流域に集中しています。

近江の玉作りの特徴を見てみると
・玉作り関連遺跡の数が多い
玉作りに関連する遺跡の数は30ほどになり、弥生時代の玉作り遺跡が多い佐渡(原石を産出)に匹敵します。
・早い時期から始めている
時期的に見てみると、近畿地方では他に先駆けて、野洲川下流域で玉作りが始まっています。
・原石が産出しないところで玉作り
弥生時代中期には北陸〜山陰の日本海側で玉作り遺跡が多く見つかっていますが、これらの地方は玉の原石を産出する場所であり、そこで玉作りをするのは当然です。
原石が出ない野洲川下流域で、玉製品作っているのがここの大きな特徴です。
・玉製品(完成品)の出土が少ない
玉作り遺跡が多い割に、墓などでの埋納が少ないのです。
・長期にわたる玉作り
近江では古墳時代にわたって玉作りが行われており、他の地域では見られないことです。

玉は威信具でもあり、交易の代替貨幣としてサンゴや貝と並ぶものでもあります。 近江で作られた玉製品は、畿内の拠点集落の長に納めたり、玉の最大消費地である北九州の有力者のもとに運ばれていました。
言ってみれば、玉は財であり交易用代替貨幣です。玉作りは、現代に例えるなら造幣局です。
早い時期から、玉作りに目を付け、玉作り工人を招き、北陸から原石を取り寄せ、玉製品を作る。 これが、野洲川下流域の弥生遺跡群が持っていた大きな力です。
玉製品を畿内周辺や北九州に納めることにより、影響力を強め、政治的な地位も高くなり影響力を発揮したと考えます。
各地での玉作りが広がってくると、原石の取り合いが激しくなったと思われます。ここが継続的に玉作りを行なえたのは、それまでに蓄えた力と交易の要所としての地の利があったからでしょう。
玉作り遺跡
弥生遺時代の玉作り遺跡

玉の制作過程
玉の制作過程(烏丸崎遺跡)【滋賀県教委】
【交易の力、情報の力】
地の利があり、交通の要所であったこの地は、交易目的で人々が集まり、ここから出かけていった、ということでもあります。物の交易だけではなく、各地の情報も得られたことでしょう。
その様子が遺構や遺物から読み取れます。

交易の拠点としての下之郷遺跡積
下之郷遺跡が当時の交易の大拠点であったことが環濠や建物などの状況証拠から推察できます。 環濠や建物のことは、「野洲川下流域の弥生遺跡/並周する多重環濠」に書かれています。
・環濠の規模
下之郷遺跡が内周環濠(多重)と外周環濠の二重構造なのか、内周環濠なのか、意見が分かれるところです。外周環濠の一部と考えられる大溝が何ヶ所で見つかっていますが、それらを線で結ぶには、まだ点が少ないのです。
吉野ヶ里遺跡や池上曽根遺跡など、二重環濠を持つ大きな拠点集落を見てみると、外周環濠の内部に集落を、大事な機能を有する施設をさらに内周環濠で囲っています。
下之郷遺跡も環濠集落の規模と構造から考えて内外二重環濠の集落と考えるのが自然です。
このような目で下之郷遺跡を見てみると、中心部は3重〜6重の内周環濠で護られ、出入り口は厳重に警護されています。ここには重要な施設があったことがわかります。
・特殊な建物
環濠の内部には、当時の一般的な竪穴住居は一棟もなく、高床の掘立柱建物や朝鮮に起源を持つ壁立式建物ばかりしか見つかっていません。
独立棟持ち柱付建物
独立棟持ち柱付建物 【守山市誌考古編】
壁立式建物
壁立式建物 【守山市誌考古編】
壁立式建物は国内では西日本の大型拠点で特殊な場所に建てられているものです。それが下之郷遺跡では大小取り混ぜて多数建てられています。
また、独立棟持ち柱付の大型掘立柱建物が中心部に建てられています。この形式の建物は、どこの遺跡でも見られるようなものではありません。東南アジア系の建物で、近江では最も古い建物です。畿内でも古い方です。何回も建替えた跡があり、祭祀などの重要な施設として使われていたようです。
掘立柱建物は方位を合わせて建てられており、建設の計画性・先進性が認められます。
竪穴住居が見つからないことは、竪穴を掘ると水が湧いてくるからだ・・という見方があります。
しかし、特殊な建物が多いことから考えて、一般住民の居住域ではなく、祭祀域や高位の人、外来商人などの居住区域で、交易の拠点だったと考えられます。
建物から話はそれますが、下之郷遺跡からココヤシの祭器が見つかっています。偶然流れ着くような物ではなく、南方系の人がとのつながりがあったと言えます。想像をたくましくすれば、ココヤシ祭器を携えた南方の商人が来ていたのかも知れません。

以上のような、環濠規模と構成や建物の様子、遺物から、ここは近江のみならずもっと広域の交易拠点であった、と考えました。

近江型土器が語る弥生の近江商人?
弥生時代、野洲川下流域の人々は、独自性の強い近江型土器をつくり、長らく使い続けていました。
この土器が日本の各地で見つかります。この土器の分布を見ると、人々は近江型土器と共に交易品や情報を遠方まで運んでいたようです。言ってみれば弥生時代の近江商人です。
詳しくは、「野洲川下流域の弥生遺跡/近江型土器が語る弥生の近江商人?」に書かれています。
弥生時代、各地の人々は土器を携えて移動し、交易をしていました。交易のための品と食糧、自炊道具としての土器も一緒だった・・という訳です。
地域色のある土器の移動状況と量を調べると、交易の広さや密度が推測できます。そのような観点から近江型土器の出土分布を示したのが次の図です。
近江型土器の動き(弥生中期) 近江型土器の動き(弥生中期)
近江型土器の動き(左:弥生時代中期、右:弥生時代後期) 出典「伊勢遺跡とは何か」伴野幸一
この図の近江型土器は主に炊事用に使われる甕です。この土器の広がりから、野洲川下流域の弥生人が、自炊しながらいかに広範囲に移動していたかが判ります。
すなわち、野洲川下流域の人々は、広範に繁く移動し、交易し、情報収集していたようだ、ということです。

以上、下之郷遺跡の状況と近江型土器の動きから、この地は交易の拠点であるとともに、この地の人が広範囲に移動(交易)していたことが判ります。交易と同時に最新の情報を収集し、意見交換のメッセンジャーの役割も果たしていたのでしょう。
交易用に何を持ち歩いていたのか? それが前節で述べた玉製品ではないでしょうか?
上の図には弥生時代後期の土器の動きも示しました。中期に比べると、より遠方へ多くの近江型土器が動いています。弥生の近江商人が30の国と卑弥呼を共立する相談、情報交換をしていたことも考えられます。もしそうならば、情報を握っている近江南部が卑弥呼共立を主導したのではないのでしょうか?
【大きな力を持っていた証拠−多数の方形周溝墓群】
九州の王たちは権力を誇示するために、墳墓に多くの埋葬品を副葬しました。
一方、野洲川下流域の方形周溝墓にはあまり副葬品がありません。これは風習の違い、または九州のような大きな王権の仕組みがまだ整えられていなかったため、とも言われています。 そのような副葬品の立派さとは違い、野洲川下流域には周囲に溝を持った方形の墳丘墓 −方形周溝墓がとても多いのです。
服部遺跡方形周溝墓
墳丘は小さなもので5m(長辺)、大きなものでは20mのものがあり、周囲の溝も幅1m〜5m、深さ1m〜2mと様々です。
服部遺跡では、見つかっているだけで360基を超えます。これだけの溝を掘り墳丘を作る土木作業量は大変なものであったでしょう。ただ、墳丘は後世の削平により、ほとんど失われています。
方形墳丘墓は烏丸崎遺跡でも300基ほど見つかっています。 一般的には、土溝墓や壷・甕棺墓多かった時代に、これほど多くの方形周溝墓を造ったのは、人口が多く裕福であった、すなわちそれだけの大きな力を持っていた証しです。

これまで見てきたように、弥生時代中期のこの地の力は「玉による財力」と「交易による富の蓄積、情報の力」と言えます。そうして後の伊勢遺跡時代の力の基盤を築いたのです。

弥生時代後期の力

次いで、弥生時代後期(伊勢遺跡の時代)にはどのような力の源があったのでしょうか?
基本的には、これまでに述べてきた力の源泉が続きますが、玉作りは衰退します。衰退の原因は、玉にガラスの技術が用いられるようになったこと、家内生産的なやり方から専門工房での大量生産に変わっていったことなどが指摘されています。しかし、古墳時代になるとこの地で玉作りが再開されます。
【祭祀の力】
この時代は、政祭一致で、マツリゴトは重要な行事で権威の象徴でもありました。
全国的に見ると、青銅器祭祀が広く行われていました。地域によって祭器は異なっていたが、時代経過とともに統一されていく様子が、「野洲川下流域の弥生遺跡」ホームページの「こんなに凄い遺跡だった/銅鐸祭祀を統合した近畿政権」に記載されています。
野洲川下流域は銅鐸祭祀の統合を主導するのですが、それは、それまでに蓄えた富と力の蓄積があったからだと言えます。では、銅鐸祭祀以外の祭祀はどうだったのでしょうか?
この地域は独自の祭祀を行ってきました。それは弥生時代中期の木偶祭祀です。また弥生時代後期には手焙型土器を祭器として使う祭祀を始めます。
このことは「下流域の弥生遺跡はこんな遺跡/いろいろなまつりの道具」に書かれています。
木偶
木偶 【滋賀県教委、守山市教委】
手焙型土器
この地域は、祭祀の独自性を持っており、木偶祭祀は近畿への拡散が見られ、手焙型土器祭祀は近畿一円から全国へ拡散していったことが判ります。
野洲川下流域が銅鐸祭祀の統合を行なえたのは、それまでの力の蓄えに相まって、独自性のある祭祀を行い、それを発信(布教?)する力、言いかえれば、祭祀を執り行うカリスマ性のあるシャーマンの力があったのでしょう。

大きな力の結果としての伊勢遺跡
銅鐸を作るには、高価な銅原材料の入手と優れた銅鐸工人を抱える必要があります。大きな銅鐸ではなおさらのことです。
蓄えた富と力、独自性のある祭祀、それらがより大きな銅鐸を作り出し、さらにそれが銅鐸祭祀の立場を強める・・・という循環で銅鐸祭祀を統合していく、という図式が見えます。
弥生時代後期、銅鐸祭祀が5系列に分かれており、それが近畿式銅鐸と三遠式銅鐸に統合されます。
銅鐸の統合を契機に、それまで別々に銅鐸祭祀を行なってきた国々が共通の祭祀空間、伊勢遺跡を野洲川下流域に造営しました。これで、冒頭に誰が何のために・・と書いたところに行きつきます。多くの祭殿が建てられたこともうなずけます。
このストーリからすれば、倭国大乱のときに国々が協議して共に卑弥呼を擁立した・・  その場所が伊勢遺跡であることは、ごく自然なことです。
卑弥呼により、銅鐸祭祀から銅鏡祭祀に変更された時、いろいろな種類の多くの銅鐸が大岩山に埋納されました。銅鐸祭祀センターであった野洲川下流域として、これも自然な流れです。
そうして最後に伊勢遺跡が平和裏に廃絶されたと考えられます。

まとめ
野洲川下流域の力の源泉は、
 先ずはびわ湖と野洲川、地理からくる「地の利」
 弥生時代初期の米の生産力 「米は力なり」、それに伴う「人は力なり」
 弥生時代中期の玉作り「玉は財なり」、それを武器として使った「交易の力、情報の力」
 弥生時代後期の独自性のある「祭祀の力」、それを主宰した「シャーマンの力」
 それらの力をうまく使った近江南部のクニの王  と考えます。

文責:田口 一宏 

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