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大型建物が整然と並ぶ祭祀空間 伊勢遺跡(1)
  〜類を見ない巨大な祭祀空間〜
弥生時代後期の中頃、突如として巨大な祭祀空間が野洲川下流域に現れ、多数の大型建物が整然と建ち並びます。中国伝来の最新建築技術が使われた建物もありました。
これだけの規模の遺跡なのに出土物がほとんどなく、ここが特殊な空間であったことが判ります。
伊勢遺跡はこんな遺跡
伊勢遺跡は、滋賀県守山市伊勢町から阿村町にかけて発見された弥生時代後期の約30ヘクタールに及ぶ大規模な遺跡で、弥生後期としては国内最大級です。
弥生後期、近畿地方では、中期の巨大環濠集落が解体して、小さな集落に分散するなかで、伊勢遺跡のように巨大化する遺跡は稀です。
さまざまな形式の大型建物が計13棟も発見されており、それらが円と方形(発掘はL字形の部分)の組み合わせて計画的に配置されています。
直径220mの円周上に等間隔に配列された祭殿群、中心部には方形に配列された大型建物がならび、柵によって囲われています。そばには楼観が建っています。
大型建物がこれだけ集中して見つかる遺跡は他にはありません。
建物の型式・配列から見て、巨大な祭祀空間が存在していたと考えられています。
遺跡の全体
伊勢遺跡の建物(復元想像図)
【後ろは三上山(近江富士)】
(CG制作:MKデザイン 小谷正澄氏)
このような大規模な遺跡であるにも関わらず、大勢の人たちが日常的に生活していたような痕跡が見当たりません。大型建物群や周辺の溝からは生活遺物が出てこないのです。その当時の墓地も見つかっていません。このような事実からも、この場所が特殊な位置づけの遺跡であることが推定されます。
中央部の建物群は、魏志倭人伝に【宮室楼観城柵厳設】と書かれている「卑弥呼の居処」と似た構成となっています。
このような建物群からなる遺跡は、卑弥呼が倭国王となる前段階を知る上で、全国的に見ても非常に貴重であることから、平成24年1月に国史跡に指定されました。
多数の大型建物と優れた建築技術
【多数の大型建物群】
弥生時代の大型建物は一般的には床面積が40u程度以上で、太い柱を持つ建物を指します。伊勢遺跡ではこのような条件を満たす大型建物が12棟も見つかっています。
  大型建物がこれだけ集中して見つかる遺跡は他にはありません。
弥生時代後期に限ると、近畿地方ではこのような大型建物は、伊勢遺跡群(伊勢・下鈎・下長)の3遺跡に集中しています。これらの遺跡は境川(野洲川支流)左岸の2.5km範囲に分布していて、全国的にみても特異な地域であったことが分かります。
【さまざまな建築様式】
伊勢遺跡では大きく見て5種類の大型建物が発見されており、それぞれが、特別の機能を持っているようです。下の図は、柱穴から推測される建物の想像図です。この他、平地式(地面の上に直接建てる)の棟持柱付き建物も存在したようです。これらの建物は、
  伊勢神宮の神明造りや出雲の大社作りとよく似た様式のものがあり、先駆的な建物として関連性が注目されます。
独立棟持柱付き建物(図左)は、次に述べるように、ほぼ同じ規格のものが円周上に6棟が配列されています。こうした建物は、銅鐸や弥生土器にも描かれており、祭祀に関わりを持つと考えられます。
写真
独立棟持柱付き建物
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楼観
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屋内棟持柱付き建物
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大型竪穴住居
(CG制作:小谷正澄氏)
【他では見られない優れた建築技術】
大型竪穴住居は、一辺約14mという大きさで、屋内に棟持ち柱を持っています。その床はきれいな粘土を叩きしめた後、焼き固めています。このような焼床は他には例がなく、中国や朝鮮に類例が見られ、湿度防止のための工夫と思われます。
しかも、竪穴の四周の壁には焼き固めた古代のレンガが並べてあり、国内で初めてレンガが使われた構造物です。国内最古の焼レンガです。
 いずれも中国に源流を持つ、当時の最先端建築技術です。
写真
焼き固めた床
【守山市教委】
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焼レンガの基礎
【守山市教委】
特異な建物配列
このような大型建物が、円周と方形の組合せで計画的に配列されており、他所では見られない配列です。
弥生時代に方形区画があることも特徴で、ここが特異な場所であることが分かります。
【柵で囲われた方形区画】
遺跡中心部には、二重の柵の内側に大型建物が整然とL字型に配列した方形区画と呼ぶ特殊な空間が存在します。床面積86uのとりわけ大きな棟持柱付き建物を中心に、3棟の棟持柱をもつ建物が、正方位に合わせて、西側に配列されています。
東側にも3棟の建物が並んでいたと推測されますが後世の河道により破壊されていて確認できていません。
それに隣接して総柱式で、一辺9mの正方形の大型建物が検出されていますが、佐賀県吉野ヶ里遺跡で発見されているような楼閣のような施設と見らます。
巨大な集落遺跡の中心部に、柵で方形に区画された中に大型建物を整然と配置していることがわかる遺跡であり、全国的にみても殆ど類例を見ません。
【円周上に配列された多数の建物】
方形区画や楼観を中心にして、半径110mほどの円周上に独立棟持柱付き大型建物が7棟発見 されています。計画的に円周配列したことが判ります。これらの独立棟持柱付き建物は、床面積は約40uでほぼ等間隔に建っており、伊勢遺跡の
存続期間のなかで、計画的に円周上に建設されていったと推測できます。
このように、円周上に配置された建物群は、他に例がなく、この遺跡だけの特殊な遺構といえます。

方形区画建物
中央部 方形区画の建物配列
円周配列建物
円周配列の祭殿群(円周上の一部を表示)
(CG制作:小谷正澄氏)
 SB-1を通る南北軸を対称軸として、東側にも3棟の
 建物が並 んでいたと推測されるが、後世の河道により
 破壊されていて確認できていない。
 遺跡北東部で発見された建物跡から
 復元した建物復元CG。
 現在までに6棟の祭殿跡が見つかっている。
日常品がほとんど出土しない
守山市にある弥生時代の集落跡からは、多くの生活用品が出土しています。下之郷遺跡の環濠からは、当時の人々の生活や環境が復元できるような、遺物が多量に出土しています。
しかし、伊勢遺跡からは建物跡はたくさん見付かっているものの、日常用品の遺物はほとんど出土していないのです。生活臭がないのです。周囲に掘られた大溝や区画溝からもほとんど出てきません。伊勢遺跡が廃絶されるときにも、きれいに片づけて清掃したように思えてなりません。この事実は、伊勢遺跡の特殊性を裏付ける大きなヒントです。
多くの大型建物、その特殊な配列などから、伊勢遺跡の東側は祭祀空間と考えられます。一般の人々が日常生活をおこなっていたとは考えられません。
伊勢遺跡の造営当時、多くの建物や大溝の工事に関わった大勢の人々がいるはずです。生活雑貨やごみなどはどのように処理していたのでしょう?
ここは祭祀空間であり神聖な場所であったとしたら、ごみなど出てこないでしょう。どうやら、そんな場所であったようです。
歴史的意義−−初期ヤマト政権の成立に働いた遺跡
弥生時代に栄えた大規模集落には、九州の吉野ヶ里遺跡や、近畿の池上曽根遺跡、唐古鍵遺跡などがあります。これらの遺跡は、弥生時代の早期から後期まで同じ場所に継続して生活が営まれます。
これに対し、伊勢遺跡は弥生時代後期半ばに、何もない扇状地に突然現れて巨大化し、後期末にはその使命を終えます。それは、紀元1世紀後半から2世紀末と考えられ、祭祀空間として栄えるのは 100年程度の短い間です。
伊勢遺跡が出現する紀元1世紀中ごろの日本列島には百余のクニがあった時期です。倭国大乱があって国が乱れます。各地の拠点集落は解体して小規模な集落が散在するようになります。鉄が中国よりもたらせられ、九州より中国・近畿へ急速に広がって行く時期でもあります。鉄の入手ルートをめぐって強い危機感があったことでしょう。西日本から中部地方にかけて、いくつかの有力な地域政治勢力が競合していました。このような社会が大きく動揺していた時期に、突如出現する伊勢遺跡は、より大きな政治組織を必要とした各地のクニが共同で生み出したものと考えられます。
また、伊勢遺跡の衰退期は、『魏志倭人伝』に記されたように、30余国が属する邪馬台国を都とする倭国の形成期、という歴史的な転換点にあたります。それは、卑弥呼が擁立され倭国大乱が収束した時期です。
伊勢遺跡の衰退はこのような歴史的な転換とも何らかの関わりがあったことは想像に難くありません。
卑弥呼擁立をもって伊勢遺跡の役目は終わり、祭祀を通じた政治システムは、卑弥呼に引き継がれた、と考えることもできます。
すなわち、伊勢遺跡の歴史的な役目は、初期ヤマト政権の成立に先立ち、地域の政治的統合や安定に関わるものであったと考えます。

伊勢遺跡の詳細はこちらをクリックして下さい ⇒ 伊勢遺跡ホームページ

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