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下流域の弥生遺跡はこんな遺跡 > 弥生遺跡の分布と主要な遺跡

 弥生遺跡の分布と主要な遺跡
びわ湖には多くの川が流れ込み、東岸にはびわ湖に沿って南北に細長く近江平野が広がっています。そこには縄文時代から人々が住み、弥生時代には多くの集落が営まれ、遺跡として残りました。とくにびわ湖に注ぐ最大の川、野洲川の下流域には広大な淡水デルタが形成され、地の利もあって大きな拠点集落が生まれました。
野洲川下流域の遺跡の広がり
野洲川下流域は、守山市や隣接する栗東市、野洲市、草津市に広がっており、各市の教育委員会や遺跡によっては滋賀県教育委員会が発掘調査しています。
この約10km四方の範囲に120か所ほどの弥生遺跡が見つかっています。この中には、土器が散布しているだけの遺跡から、小さな集落、大規模な環濠集落、大型建物が立ち並ぶ遺跡までさまざまです。
右の遺跡分布図から、2つのことが判ります。
@現在の湖岸線から離れた所(図の右側)に多くの
 遺跡が見られ、左上の部分には遺跡が見つかって
 いない。
 これは、この辺りの地形によるもので、後で 詳しく
 説明します。
A湖岸(図左下)では、びわ湖の中すなわち湖底に
 遺跡がある。
 これはびわ湖の生成に起因するものです。
遺跡分布
出典:滋賀県遺跡地図および各市の遺跡分布図より作成
地形と遺跡分布
野洲川下流域の地形を模式的に描いたのが左図で、発掘された遺跡の標高の実際が右図です。
近江を大きく見ると広大な盆地になっており、びわ湖東岸は広い平野に見えますが、東側の山地からびわ湖までは比較的距離が短く、標高差があります。河川は上流では激しい浸食を行い、中流域では扇状地を形成し、下流では氾濫原、三角州を形成しています。
弥生時代前期から後期にかけて、この地の集落の多くが短期間に盛衰し、移動する状況が見られますが、これは地形に大きく依存していると考えられます。
平野モデル 遺跡の水平分布

扇状地では伏流水が流れており、地表は乾燥しており、水田作りには灌漑技術や稲作技術の進展と農具の発達を待つ必要があります。
自然堤防帯(氾濫原)では、伏流水が地表に現れて川となり、時には氾濫し、流れを変え自然堤防が形成されます。結構起伏の激しい所です。米つくりの初期には、低湿地に田を作り、自然堤防帯を住まいとしていたことでしょう。また、この辺りは野洲川の大きな氾濫の度に集落が押し流され、土砂が積み重なった場所でもあります。
川に運ばれた土砂が河口に絶えず積み重なり、北流と南流の間にきれいな三日月状の三角州を形成し成長し続けています。この三角州地帯は、びわ湖の水位の変動、川の氾濫の影響を直接的に受けて、集落の形成には適しないところです。しかし、稲作技術が未熟な時には、三角州の湿地帯が米つくりには適していました。
このような地形の構造から、扇状地では少し掘れば古い地層が現れて遺跡を見つけやすい、一方、氾濫原では土砂が積み重なっているため深く掘らないと古い地層が出てきません。このような状況が遺跡分布の密度とよく一致しています。
湖岸(図左下)では、湖底遺跡が幾つも見つかっていますが、これはびわ湖が「構造湖」であることに起因しています。びわ湖は地殻変動によって少しずつ沈み込み、西側に移動しています。
湖底遺跡は、縄文時代、弥生時代に湖岸の平地であったところが、びわ湖の水位上昇や地殻変動が引き起こす地震による沈み込みなどで湖底に引きずり込まれた結果です。
主要な遺跡の分布
このような地形の構造(三角州、氾濫原または自然堤防帯、扇状地)を加味しながら主要な遺跡の分布を示したのが右図です。
この図には野洲川が流れを変えてできた旧河道も示しています。 当時は、中央辺りに東から西に大きな川 (境川)が流れていました。
図には、集落として成立していた遺跡、その地区での中核的な遺跡、重要な遺物が見つかった遺跡などを示しています。
扇状地先端部や氾濫原でも扇状地に近い微高地に主要な集落が存在しています。 この地形から判るように、南北方向の移動は、野洲川の多くの支流や自然堤防帯を越えねばならず困難であったことは確かです。
一方、東西方向には多くの川が流れており、川を使えば移動は簡単でした。 びわ湖の湖岸からは多くの丸木船が見つかっており、川〜湖岸〜川を丸木舟で移動するルートで交流していたようです。
拠点遺跡の分布
このため、人々は川と川の間の領域の集落の間でまとまり、村を形成していたと考えられます。
すなわち、野洲川右岸地区、野洲川と境川の間の地区、境川と葉山川の間の地区・・というような集落構成でまとまっていたと思われます。
野洲川南流と北流の間の地域(後に放水路が設けられる)も一つのまとまりであったと推測されます。
弥生初期には湖岸側に集落を営み、稲作技術の進展や人口増大に伴い耕作地の拡大のために扇状地に集落が移動・展開していった様子が認められます。
やがて中期後半や後期には全域をとりまとめていく広域拠点集落が扇状地に現れます。後にクニ(國)と呼ばれることになります。
拠点遺跡の分布

 弥生時代はどんな時代
野洲川下流域の弥生遺跡の紹介に先立ち、弥生時代とはどんな時代であったか、それが野洲川下流域ではどのように表れているかを見ておきたいと思います。
弥生時代とは
弥生時代はどのような時代であったか、一般に理解されている社会の様子とそれを象徴する野洲川下流域の遺物、遺構を見てみます。それらの遺物・遺構の詳細は、ページを改めて詳しく説明します。
【米つくりが始まる】
現在では、水稲農耕技術を安定的に受容した段階以降を弥生時代とするという考えが定着しています。
水稲農耕は、先ず九州に伝わり徐々に東に伝播していきます。したがって、地域によって、弥生時代の始まりには違いがあります。
【生活が安定した】
水田を開墾し稲作を始めたことにより、縄文時代の狩猟・採集を主体とした生活から、住まいを構えてより安定した定住生活に変わっていきました。人々は竪穴住居にすみ、大切なお米は高床式建物に貯蔵していました。
【戦が始まった】
人口が増えるとお米の増産が必要で、耕作地の拡大が原因となって、各地で土地と水に絡む戦いが頻発したものと考えられています。大規模な戦があったかどうかは専門家の間でも意見の分かれるところですが、集落間で紛争があったことは確かでしょう。防御のために、濠で外敵を防ぐ環濠集落や高地に集落を作るようになってきました。
【身分の階層が生じた】
稲作は集団として力を合わせて行う作業ですし、外部との戦いに備えるためには強力なリーダの存在が不可欠です。このようにして人々の間に身分の階層が生じてきたのも弥生時代の特徴です。
そうすると、リーダの威信を示すために青銅器や玉などの威儀具が必要となり、製造工房が現れます。
【大きなお墓を作るようになった】
人が亡くなるとお墓に埋葬するようになりました。地方によって埋葬方法は違いますが、土坑に埋めるだけの埋葬から、大きなお墓を造って埋める埋葬と、ここでも身分による違いが出てきます。
副葬品にも身分の違いが表れています。
【国としてまとまってきた】
弥生時代も中期から後期になると、小さな村が大きな村となり、やがて小さなクニとなり、それも大きなクニに統合されていきます。やがて倭国大乱を経てヤマト王権が成立します。この辺りのことは中国の古書に記されています。

遺跡を掘って時代を判別するとき、以上ような遺構や遺物が出てくれば弥生時代の直接的な証拠となる可能性が出てきます。実際の年代は、考古学者の長年の研究で、土器の形から年代を判別する「土器編年法」が確立されており、出土した土器破片から時代が推定されています。
でも、遺跡を掘って、水田の跡や農耕具あるいは直接的に籾、炭化米などが出てくれば「弥生時代だな〜」と実感できますし、青銅器や玉製品、あるいは集落跡、お墓などが見つかれば、当時の社会や生活の理解が進みます。

水田跡
水田跡(服部遺跡)【守山市教委】

大型建物
高床式建物(下之郷遺跡)【守山市教委】

環濠
 環濠(下之郷遺跡)【守山市教委】

玉製品
玉製品(烏丸遺跡遺跡)【滋賀県教委】

方形周溝墓
方形周溝墓(服部遺跡)【守山市教委】
野洲川下流域は弥生の教科書
このように考えると、弥生時代の遺跡としては
  • 米つくりの証拠 水田跡や農耕具、籾や炭化米
  • 青銅器や玉製品、その製造工房、製造工具
  • 竪穴建物や高床式建物などと集落跡
  • 環濠と戦の痕跡、武器
  • 国の政治、祭祀の場としての大型建物
  • お墓と埋葬物
  • 人々の生活の痕跡 食べ物、生活道具、日用雑貨

などの遺構や遺物が見つかり、それらを調べれば、当時の人々の暮らしや社会構造が良く理解できます。
日本各地の多くの弥生遺跡からは土器や石器が出土しますが、それに加えて上のような遺構・遺物が一式が揃って出てくる遺跡は先ずありません。
弥生前期から後期まで続いている九州の吉野ヶ里遺跡では、かなりの遺構遺物が出てきますが、全てが揃うかというと難しいようです。
野洲川下流域にたくさんの弥生遺跡がありますが、一つの遺跡で弥生の遺構・遺物が見られる所はありません。しかし、約10km四方の遺跡を見てみると、上で述べた遺構・遺物のほとんどが揃っており、内容も他では見られぬ充実したものです。
弥生の始まりから終焉までの人々の生活や社会の移り変わりがこの地域で一望できるのです。言って見れば「弥生時代の教科書」のような場所なのです。
籾と炭化米
籾と炭化米(下之郷遺跡)【守山市教委】

銅鐸
銅鐸(大岩山)【野洲市教委】

盾と武器
盾と武器(下之郷遺跡)【守山市教委】
まとめ
野洲川下流域に生まれた集落は、地形の影響やびわ湖水位の変動の影響を大きく受けながら、集落が栄え、人口の増大と共に内陸側へ拠点が移って行きました。
川筋ごとにまとまっていた集落群も、やがて広域拠点のもとに統合されクニ(國)になっていきます。
野洲川下流域という狭い範囲で、弥生時代象徴する遺物・遺構のほとんどが出土しており、それらは質・量共に優れたものです。これらの遺構・遺物より弥生の文化と歴史の流れをここで見ることができます。

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