タイトル
 弥生中期を終わらせた巨大地震  【投稿No.田口201802】
「服部遺跡のミステリー」の1節として、「弥生中期末に大地をえぐるような大洪水が起きたのは2000年前の大震災?」を書きましたが、2000年前の巨大地震は野洲川下流域に災害をもたらしただけではありません。
近畿〜中国〜四国〜(東海)の弥生社会へ大きな影響をもたらしたはずです。 従来の歴史の解釈を変える可能性のあるテーマであり、データを追記・補強して掲載します。
はじめに
野洲川下流域の弥生遺跡を調べていて、弥生時代中期末に、なぜ大きな異変や社会の変化が生じたのか? 不思議に思えました。
1.服部遺跡で大地をえぐるような大洪水が起きている
2.野洲川下流域の環濠集落が一斉に姿を消す

これらが2000年前の巨大地震によってもたらされたと考えると辻褄が合います。 さらに言えば、野洲川下流域の弥生遺跡にのみ限らず、近畿・中国・四国で生じた弥生中期末の大きな社会変化をうまく説明できるようです。
・ 近畿の環濠集落の終焉
・ 祭祀の形の大きな変化
・ 銅鐸の埋納
・ 高地性集落の一斉出現
・ 瀬戸内海物流ルートから日本海物流ルートへの変化
など、弥生中期末に生じた大きな社会変化の起因について、いろいろな見解が述べられており、主として地政力学的な観点から説明されています。
これらは、その時点までに既知の歴史的事実でもって説明付けようとするものです。
最近、異常気候の科学的な推定や過去の巨大地震などの発生など新しい歴史的事実が読み取れるようになってきました。
これらの新しい知見を過去の歴史に当てはめると、上記社会変化の原因は、地政力学の観点だけではなく、自然現象によってももたらされたと考えることができるように思えます。
これらは証拠となる遺物・遺構を示して答えを出せるものではなく、状況証拠から推定するしか方法がないのですが、私見を述べてみます。
弥生時代の相対年代
弥生時代に起きた出来事や社会変化が起きた時期を「弥生時代中期後葉」などと土器編年をもとに築き上げられた年代を使って語られることが多いです。中国の古文書に記載された出来事の実年代が動かないものとして存在しますが、土器編年は最新の科学的年代測定法の出現により、揺れ動いています。
また、歴史の読み方により、考古学者の間でも「弥生時代中期の終わり」、「古墳時代の始まり」などの年代は人によって見解が違ってきます。
私たちは、次の図の最上段の歴年代を用います。 歴史年代観 このレポートでは、2000年前(西暦1年頃)に生じた巨大地震を扱いますが、この年代にも数十年程度の測定誤差があるそうです(といっても相当な精度ですが)。
また、「はじめに」に書いた社会の出来事も著者の年代観に準拠して書かれており、AD1年(西暦1年)の事象も「弥生中期後葉」と記されたり「弥生後期初頭」と書かれたりすることになります。
したがって、このレポートでは実年代の書かれていない出来事に関しては、AD1年の前後1世紀位と幅広く取り上げて検討しています。したがって、2000年前の地震とは関係のない出来事も検討しているかもしれません。逆に、後日、やはり関係があった、ということもあり得ます。
検討を始めたきっかけ:服部遺跡の洪水の痕跡
〜弥生中期末に大地をえぐるような大洪水が起きたのは2000年前の大震災?〜

服部遺跡の大洪水の状況

服部遺跡では「頻繁に起こる大洪水」の痕跡が残されています。繰り返す大洪水の中でも、紀元1年あたり、時代で言うと弥生時代中期末、すなわち今から2000年前に起きた大洪水はとりわけ大きな影響をもたらしました。
服部遺跡の年代と洪水

弥生中期末の大洪水

15世紀に堤防が築かれ始める前は、服部遺跡周辺で洪水が発生しても洪水堆積物が広範囲に積み上がるだけでした。 服部遺跡での、洪水による土砂の堆積状況を図右に示します。 堤防などない時代、台風や大雨がもたらす多量の雨は大地をあふれ、水で運ばれ土砂があたり一面に積み上がり遺跡を覆いました。 弥生中期末の洪水では様相が違っています。この洪水により上流側の東西側がえぐり取られているのです。
洪水で積みあがった土砂
洪水で積みあがった土砂
洪水で削り取られた遺跡
洪水で削り取られた遺跡 新しい河道が形成される
発掘調査の範囲200×600m  

えぐり取られて出来た河道は幅が50〜60mもあります。先端が細くなっており、川の中洲のような形状です。
一般に川の中洲は上流側、下流側共に先端が尖った形になっています。水の流れによる浸食によって端部がやせ細っていく状態です。
特徴的なことは図中、河道Cのようにクランク状に流路が形成されていることです。
そこには流れを変える岩石などの障壁はありません。なぜ、急な角度で水流が流れたのでしょうか? これが検討を始めたきっかけでした。

びわ湖の水がどっと逆流した?

この時の洪水は、堆積物を広い範囲に土砂を積み上げるだけではなく、激流となって低地の土砂を削り取っていったようです。では、その激流がどちらの方向から流れてきたか、ということですが、私は、下流側すなわち、びわ湖側から激流が押し寄せて陸地の土を剥ぎ取り、それがだんだん深い川状になっていき陸地の末端が細くなっていったと考えます。
これだけの激しい変化を起こす水量は野洲川の上流から流れてくるのではなく、びわ湖側から、どっと押し寄せたに違いありません。当時の服部遺跡は湖岸近くにあったので、より大きな影響を受けたのでしょう。
ではびわ湖の多量の水を揺り動かした原因は何だったのでしょうか? 思い当たるのは2000年前のマグニチュード9(M9)を超える南海地震です。平成23年に起きた東日本大震災を超えるだろう、といえる大きな地震が2000年前に四国・近畿・東海地方の太平洋沖で生じていたのです。【文献1】
最近その様子、規模が明らかになってきました。このことは、後述することにして、2000年前の巨大地震でびわ湖が揺さぶられ、びわ湖でも津波が起きて野洲川三角州を遡上したのではないでしょうか? 多量の水が遡上している最中に大きな横揺れが生じてクランク状に水の流れが変わったとも考えられます。
もう一つ考えられる原因は、約2000年前に起きたびわ湖周辺のM7.5クラスの地震です。びわ湖全面を揺り動かすような地震の痕跡が見つかっています。【文献2】
南海地震と連動したのか、時期が少し離れていたのか、定かではありません。
後世のびわ湖周辺の地震で湖水が多量に移動し、津波となって湖岸を遡上した文書記録が残されており、2000年前の巨大地震で大津波が生じ野洲川下流域を遡上した可能性は十分にあり得ます。
2000年前の大洪水で、と書きましたが、正しくは2000年前の大津波、と書くべきでしょう。

2000年前の巨大地震
2000年前に起きたと想定される2つの地震について述べます。

南海トラフ起因の南海地震

およそ2000年前、南海トラフの沈み込みによって起きた大地震で生じた大津波の痕跡が、四国や九州、東海地方の三重県で見つかっています。津波の痕跡は、高知大学と名古屋大学の研究グループの調査で見つかったものです。【文献1】
海岸近くにある池には、津波とともに海の土砂・小石が運ばれ池の底に積もります。
大きな津波ほど多くの土砂・小石を運びます。
池の底で採取した地層から、過去の大津波で海底などから運ばれたとみられる砂の層が見つかり、この厚みから津波の規模が推定できるのです。
津波堆積物の模式図
津波で積みあがった土砂
出典:「科学」2012.2 岡村真氏、松岡裕美氏
南海トラフ
2000年前の津波の痕跡

:過去の津波による堆積物が検出された所

高知大学岡村真氏らは海岸近くにある30数か所の池を調査し、そのレポート(科学 Feb.2012)に津波の詳細なデータが発表されています。
津波堆積物の比較
出典:津波堆積物からわかる南海地震の繰り返し「科学」2012.2 高知大学 岡村真氏、松岡裕美氏

四国、九州、東海で見つかった津波による砂の層は、いずれもおよそ2000年前の層が最も厚くなっており、300年余り前の「宝永地震」による砂の層の数倍にもなっていました。
このことにより、これまで南海トラフで最大と考えられてきた「宝永地震」の津波より規模が大きいと考えられることが分りました。
宝永地震の推定強度がM8.6でしたが、2000年前の地震はM9を超え、東北地方大地震と同等かそれ以上だったと考えられます。三重県でも大きな津波の痕跡が見つかっていることから、南海地震と東南海地震が連動していたかもしれません。そうすると地震の規模はもっと大きかったことになります。
現在、将来に起こるかもしれない地震の予測が行われていますが、地震予測シミュレーションでは、もし、南海トラフによるM9レベル巨大地震が生じたら、30数mの津波が起きると予測されています。

びわ湖周辺の大地震

びわ湖周辺には多くの遺跡がありますが、液状化現象に伴う噴砂や断層などの地震跡が縄文時代から江戸時代までの時期で見つかっています。【文献2】
特に弥生時代中期には、びわ湖周辺の湖底や湖岸など広域にわたってM7.5クラスの地震跡が出てきます。歴史年代の表現の問題がありますが「約2000年前」と推定されており、上述の南海地震とほぼ同時期にあたります。
阪神淡路大震災の時の揺れはM7.3でしたから、揺れの大きさが想像できます。
南海地震と連動したのか、時期がずれていたのか、わかりませんが、野洲川下流域の弥生集落にとっては大きな災害であったでしょう。
2000年前の地震で何が起きたのか
2000年前の南海地震がM9かそれ以上だったとしてどのような被害が生じていたのでしょう?
東日本大震災の津波の大きさは最大で20m前後でした。この津波は高い防潮堤を超え、陸地を遡上していき高地にまで達します。その遡上高さは最大で40mくらいでした。
2000年前、今のシミュレーションで予測される30mの津波が起きていたら、海岸近くでは30mの津波に押し流され、防潮堤もない時代、遡上した津波は100m近くまで達していたのかも知れません。(遡上高さは津波高の数倍と言われている)
また、震度ですが、阪神淡路大震災の時の揺れはM7.3でした。その時には近代的なビルや高速道路が倒壊しています。
これらを勘案すると、起きたに違いない被害は;
 ・地震の揺れによる、建物の倒壊・損傷、特に太平洋岸近くの集落は壊滅
 ・30mの津波、100m級の遡上津波で太平洋側の集落は高台でも壊滅
 ・瀬戸内にも津波は回り込み、集落・港・船舶も破壊し、海運は壊滅した
 ・内陸の集落も揺れで倒壊、湖・河川から水が溢れて洪水による大被害
などが考えられます。
2000年前の地震がもたらした社会変化
実際に弥生中期後葉から後期初頭にかけて生じた大きな社会変化を見てみます。

(1)近畿地方の拠点集落、環濠集落は一斉に終焉し、その後は小さな集落のみ

野洲川下流域の環濠集落
【野洲川下流域の環濠集落も一斉に終焉】
弥生時代中期に営まれていた野洲川下流域の環濠集落が中期末に一斉に解体されます。
丁度、2000年前の南海地震、びわ湖周辺の大地震と重なる時期です。 地震によって倒壊したと考えてよいでしょう。
湖岸に近い服部遺跡の広大な墓域は津波で押し流され、大地はえぐられて幅50〜60mの河道が形成されます。

野洲川下流域の環濠集落 ⇒
出典 守山市教育委員会発掘調査報告書

【唐古・鍵遺跡や周辺の集落も一斉に機能停止】
奈良の唐子・鍵遺跡は、弥生中期末の洪水により多重環濠は埋没、周辺の集落も機能停止となったようです(次頁の図)。【文献3、4】
大型掘立柱建物の1mくらいの太い柱もなぎ倒されていました。
その後、環濠は再掘削されますが、集落の勢いは戻らなかったようです。
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵遺跡と周辺集落の変遷  出典:弥生時代の集落論 藤田三郎氏
【池上曽根遺跡も衰退】
野洲川下流域の環濠集落 唐古・鍵遺跡と並んで近畿を代表する大環濠集落、大阪の池上曽根遺跡は弥生中期に栄え、巨大な神殿が何度も建替えられる集落で、大阪湾にすぐ近い位置です。この集落が中期末に急速に衰退します。この時、環濠もすっかり埋没してしまうのです。【文献5】
急速な衰退の理由として、遺跡の横を流れていた古大津川が大阪湾側に流路を変え、水が南西側から逆流して遺跡に流れ込んだのでは・・・と推測されています。
遺跡跡の礫層の状況から、南西側からの逆流と判るそうです。
この「逆流」は2000年前に南西側の大阪湾から押し寄せた大津波とは考えられないでしょうか?
津波が押し寄せる方向とも一致しています。
神殿も廃絶し環濠は埋没し、再び開削されることはありませんでした。 規模が大幅に縮小した集落が再開されたようですが、拠点集落ではなくなりました。
弥生時代後期には、池上曽根遺跡から数kmの高台に観音寺山遺跡や惣ノ池遺跡という「高地性集落」が営まれます。高地性集落については後ほど述べますが、観音寺山遺跡は、軍事的色彩はなく、長らく続く一般集落とみなされています。
大津波から逃れた人たちが再度の津波を恐れて築いた集落と思われます。

(2)祭祀の形態が大きく変わる(中国・四国・近畿・東海)

【祭祀の形が大きく変わる】
弥生中期から後期にかけて、祭祀のやり方・祭祀具が大きく変わります。
それまでの祭祀がうまく働き生活が安定していたのなら、祭祀のやり方を変える必要はないでしょう。今まで頼りにしていた祭祀あるいはカミでは救われることのない災いに遭遇した人たちは
 ・新しい祭祀を導入する⇒銅器の祭祀から他の祭祀へ【文献6】
   キビやイズモでは、武器型祭器から特殊器台や四隅突出型墳丘墓へ変質
 ・銅鐸祭祀をグレードアップする⇒大型化、新しい文様
   銅鐸祭祀を続けた近畿、東海も「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」へと変わっていき、銅鐸はさらに大型化していきます。
弥生中期の祭祀
弥生時代中期の祭器の分布
弥生中期の祭祀
弥生時代後期の祭祀の地域性
出典:「王権誕生」 寺沢薫氏 の図に加工
【中期末、「聞く銅鐸」は埋納される】
弥生後期に銅鐸祭祀から鏡の祭祀に変わった時、銅鐸が一斉に埋納されたのは有名ですが、中期末にも、それまでの銅鐸が一斉に埋納されます。
寺沢薫さんによれば、「埋納の仕方から見て緊迫した状況があったに違いない」と書いておられます。緊急事態があったようです。
災いを防ぎきれなかった銅鐸は用済みになったのでしょうか?
あるいは、大切な銅鐸を緊急事態から守るために土中に避難させたのでしょうか?
そのまま後世まで土中に眠り続けます。
弥生中期の銅鐸は農耕祭祀に用いられたと言われています。平地の水田地帯にある集落で大切に使われたことでしょう。
ところが、埋納された場所を見ると、徳島県南部や高知県東部、和歌山県中南部、六甲山系では、高所からの出土が多いのです。【文献7】
これらの地域は農耕集落ではなく、平地で使っていた銅鐸を高所に運んで埋納したような格好です。上の地域は別の視点で見ると、南海地震の津波が直接及ぶところです。 大切な祭器である銅鐸を津波から守るために高所へ運んだと考えられます。
銅鐸の大型化
【新しい銅鐸は急激に大型化する】
農業祭祀に用いられた「聞く銅鐸」とは異なり、祀ること自体を目的とした「見る銅鐸」はどんどん大型化していきます。
図から急激な変化が見られますが、この時点で銅鐸祭祀の変化を促す大きな外的要因があったようです。
銅鐸の大きさが霊力の大きさを表すと考えたのでしょうか?
墳丘墓の大型化を見ればうなずけることです。

銅鐸の大きさの変化 ⇒

(3)定住型で広い高地性集落が数多く現れる

威儀具の階層性 弥生時代中期から古墳時代にかけて、3回の「高地性集落の出現」があったとされています。【文献6】 弥生中期後半から後期初めにかけて、第1次高地性集落の出現がありました。
本来の見張り砦としての築かれた高地性集落だけではなく、整備された定住型の集落が100m善後やそれ以上の高地に一斉に、爆発的に出現します。多くは瀬戸内、大阪湾に面した地域に見られます。
政治的緊張に備え、戦争を意識した防御拠点と言われたこともありますが出土品や生活の痕跡から定住集落とみなされています。
肝心なことは、中期末に「一斉に、爆発的に」出現することです。
便利な平野部から100m近い高地へ移住するにはそれだけの要因があったはずです。2000年前の地震による60m以上の遡上津波を経験した弥生人は高台へと移住したのであろうと推測されます。
九州勢の東進に備えた防備や海上の見張り・・という説もありますが、整備された定住型の大集落は大津波も経験した弥生人が、再来するかも知れない津波からの避難と考えれば納得がいきます。
第2次高地性集落 第2次高地性集落の出現は、倭国大乱のころです。
第1次に比べ範囲が広がっていますが、第1次から引き続く集落と、第1次よりはやや低いところに新たに築かれる大型集落があります。
一方で、早々と消えていく集落も多くありました。
第1次と第2次高地性集落では100数十年の差があります。出現する要因は違っているといわっれています。
政治的な要因も絡んでいるかも知れませんが、第1次と第2次は別物ではなく、どちらも大津波からの避難を目的とした集落と考えます。
巨大地震の余震は100年続くと言われています。
第1次集落は言わば仮設集落で、しばらく余震が落ち着くと平地へ戻る集落もあったでしょう。これは現代の日本でも生じていることです。
東日本大震災の余震も大きいものはM7を超えています。
2000年前の余震も大きかったに違いありません。「地震⇒大津波」を経験した弥生人は、M7を超える余震が続く中、再度、高地へ避難したでしょうし、きちんと整備された集落を、時間をかけて造営していったのではないでしょうか? それが第2次高地性集落であったのではないかと考えます。

(4)主たる流通経路が、瀬戸内ルートから日本海ルートへ変わる

弥生時代中期段階は、北九州から瀬戸内海を経由して東方への流通量はあまり多くはなかったようです。
弥生中期後葉になると瀬戸内海を介した東西交流が一時的に進展するようになり、石器から鉄器に変わりつつあった時期に鉄素材・鉄器も運ばれたようです。しかし、後期になると瀬戸内海ルートは再び低調になります。【文献8】
もはや必需物資となった鉄素材の安定的入手のためには、瀬戸内海ルートに代わる日本海まわりのルートを使うしかありません。
その役割を担った山陰・丹後地方は栄え、その結果として、これらの地域で大量の鉄器類や数多く出土するようになります。
弥生後期になって瀬戸内ルートが停滞したのは、政治的な要因があったと考えられています。
大陸からの鉄素材・鉄器は北九州勢力にもたらせられ、そこから瀬戸内海を通じて東へと運ばれました。当時の鉄は最先端の戦略物資でした。北九州勢力はそのような物資を東側へ流すのを制限するようになったのでは?【文献8】 と考えられています。
このような政治的背景があったに違いありませんが、2000年前の巨大地震も影響を及ぼしていると考えます。
2000年前の巨大地震と津波で瀬戸内海ルートの港や船舶がダメージを受けたのも大きな要因ではなかったのでしょうか?

(5)伊勢遺跡が突如として現れる

伊勢遺跡全景 2000年前の地震で近畿弥生社会はダメージを受けますが、しばらくして伊勢遺跡の巨大な祭祀空間が造営されます。
何もなかったところに突如現れて巨大化します。弥生後期から始まった銅鐸の大型化は、近畿式銅鐸と三遠式銅鐸に集約されていきます。やがて、近江南部の勢力が主導して近畿式銅鐸に統合されます。その頃に、伊勢遺跡の建築が始まりました。
余震も続く中、一つのクニでは天の怒りを治めきれないとして、銅鐸祭祀圏のクニグニが比較的被害の少なかった内陸の近江南部へ共同の祭祀施設を造ったと考えられます。
祭殿を円周上に配列したのは、クニグニの序列をつけないためでしょう。

【参照した文献】
文献1津波堆積物からわかる南海地震の繰り返し
 「科学」Feb.2012 Vol82 No.2  高知大学 岡村真、松村裕美
文献2水中考古学の世界
 ―びわ湖底の遺跡を掘る― 滋賀県立安土城考古博物館
文献3弥生時代の集落論 田原本町教育委員会 藤田三郎
文献4弥生の王都 唐古・鍵遺 ヤマト王権はいかにして始まったか
 平成19年度秋季企画展 図録
文献5大阪府埋蔵文化財調査報告1998-1
 池上曽根遺跡 ―拠点集落東方の墓域の調査―
文献6王権誕生  寺沢薫氏
文献7講演会「弥生社会の変革と高地性集落を巡る諸問題」森岡秀人
文献7邪馬台国から大和政権へ 福永伸哉


文責:田口 一宏 

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