タイトル
 下鈎遺跡のミステリー  【投稿No.田口201901】
弥生時代中期の下鈎遺跡、環濠の中を大きな川が2筋流れています。防御施設と考えられる環濠を切り裂いて川が流れている? 何のための環濠なのだろう?
弥生後期の下鈎遺跡、伊勢遺跡と同じような大きな祭殿が建っていました。伊勢遺跡のすぐ近くになぜ同じような遺跡を造営したのだろう? などの疑問が数々あります。
そのような不思議や疑問を整理してみました。
はじめに
「下鈎遺跡」ホームページに書かれているように、弥生中期には、大きな川が環濠集落の中を流れていました。同時期の環濠集落、下之郷遺跡と比べると環濠の使い方が全く違うのです。 地形から考えて、河川水運と陸運の積換え拠点という見方がありますが、なぜこの場所なのでしょうか?
伊勢遺跡に近く、同じような祭殿があって「伊勢・下鈎遺跡群」と見做されていますが、遺物や周辺遺構の様子が全く違います。
2つの遺跡はどのような関係なのか気になります。
青銅器製品や作りかけの青銅品、鋳型なども出土しています。遺物を見ていると、ここで青銅製品を作っていたようですが、どこで作っていたのでしょう?
ホームページをまとめていて、いろいろな不思議に出会いました。
これらの不思議を、私見も加えもう少し掘り下げたり、別の切り口で見てみたりしてみましょう。 状況証拠や類例からの推定を交えるため、考古学的な確からしさは薄らぎますが、ありうる話だと考えます。
・環濠を横切って大きな川が流れる。防御施設ではないのか?
・環濠自体が小さく「防御施設」になるの?
・何故、この地に造営されたか?
・中期末に多量の土器と炭化物が一斉に廃棄された。これは何?
・中期末の解体から百数十年経て再び集落が造営されるのは関係あるの?
・青銅器はどこで作っていたの?
何故、環濠を横切って大きな川が流れる?
環濠集落とは、周囲に堀をめぐらせたムラのことで、稲作文化と共に大陸から伝来し、九州から日本列島東部へ波及していきました。環濠の断面は幅広くて深くてV字形に掘られており、容易に飛び越えられず、一度はまり込んだら這い上がれず、集落の境界を示すとともに外敵からの防御施設と言われています。
野洲川下流域では、弥生中期に下之郷遺跡が環濠集落として現れ、その衰退期にいくつかの環濠集落が出現します。(下之郷遺跡に先立つ遺跡で環濠を持つと思われる集落もありますが、環濠集落と決定付けるには至ってない)
中期環濠集落  中期環濠集落
弥生時代中期の環濠集落とその時期

弥生時代中期の中頃、下之郷遺跡が多重環濠を持つ集落として栄えます。
下之郷遺跡の衰退期少し前に、約500m東側に直径約300mの1条の環濠をもつ播磨田東遺跡が出現します。この遺跡も長くは続かず、下之郷遺跡の衰退と重なるように3つの環濠集落が現れます。これらの遺跡は全て扇状地の先端部に生まれているのが特徴的で、場所的な必然性があったと考えられます。
550m×400mの1条〜2条の環濠を持つニノ畦・横枕遺跡、直径約300mと推定される1条環濠の山田町遺跡、直径約400mの環濠を持つ下鈎遺跡です。
下之郷遺跡は播磨田東遺跡を中継ぎとして、3つの遺跡に移っていったような感じです。下鈎遺跡は4kmほど離れているので、「下之郷遺跡から移った」とは言い難いのですが、後述するように関連があったと考えています。
ニノ畦横枕遺跡は、従来、均一的な大きさであった竪穴住居が、大型住居、従来並みの住居、小型住居に分かれて出現する遺跡で、この時期に身分な違いが生じそれが建物の大きさに反映されている、と見られています。
これらの環濠集落の、環濠の規模や大きさについて見てみます。
先行する下之郷遺跡の環濠は、まさしく冒頭に述べたような幅が広くて深い環濠です。環濠は3重〜6重になって並走しており、出入り口には土橋があって、近世の城郭の堀にも通じる防御施設と言えます。
環濠集落の比較
弥生時代中期の環濠集落の比較

ところが、下鈎遺跡では、幅40mクラスの川が2条も環濠を突き切って流れていたのです。これでは集落を環濠で囲っても、川から外敵は容易に侵入できます。防御施設とはならないのです。これが最大の不思議です。
出土物から分かるのですが、下之郷遺跡の環濠は、防御だけではなく、木器・木材の貯木所や養魚場、排水施設、ゴミ捨て場などを兼ねていました。
下鈎遺跡の環濠からの出土物は少なく、上のような機能を果たしていたようには思えないのです。下之郷遺跡と比べると環濠の使い方が全く違うようです。
濠は小さく「防御施設」になるの?

環濠の規模を比べてみる

上で、3つの環濠集落の規模の比較をしましたが、濠自体の大きさを見てみましょう。
環濠構造の比較
環濠構造の比較

下之郷遺跡の環濠に比べると、それに続く環濠集落の環濠構造はスケールが小さいのです。下鈎遺跡の環濠は、大きいところで幅3.5m、狭いところでは幅が1.5mくらいです。飛び越えられない距離ではありません。
上項の「川が貫く環濠」と併せて考えても「防御施設」とは考えにくいです。
上の「環濠構造の比較」には、ちょっとトリックがあって、下之郷遺跡の環濠がすべて図の通りではないのです。内周(第1環濠)から掘削を始め、年を追うごとに外側に環濠を掘っていきました。
下之郷遺跡の環濠
下之郷遺跡の環濠のスケール模式図【守山市教委 川畑和弘】

下之郷遺跡が衰退に向かう頃に掘られた外周の第5、第6環濠は幅・深さ共にスケールが小さくなっていきます。その頃の環濠のサイズ・イメージは初期とは異なっていました。
下之郷遺跡と入れ替わりに造営されるニノ畦・横枕遺跡や下鈎遺跡の人たちは、下之郷遺跡の最新の環濠を見て、そのスケールに合わせて環濠を掘削したとしたら、丁度このような規模の環濠になるのでしょう。

何のための環濠か

どうやら環濠は防御機能を捨て、集落の区画溝となっていた、と考えます。
それに、下之郷遺跡に続く複数の集落に環濠が設けられていることからみても、「中核的な集落には掘を巡らせる」という集落構築の概念もあったのでしょう。
以上の推定からすれば、環濠を貫く川があっても、集落境界を示す「掘」で囲われておれば、それが中核集落のステータス・シンボルだったと思えます。

何故、この地に造営されたか?
下鈎遺跡は、弥生中期の野洲川下流域の拠点であった下之郷遺跡を継ぐのか? という疑問があります。
ニノ畦横枕遺跡は下之郷遺跡のすぐ近くで、入れ替わりに造営されたことは間違いないでしょう。下鈎遺跡は4kmくらい離れた位置にあり、その間に大きな境川が流れていたことを考えると、下之郷を継ぐのか? というと、ちょっと疑問を感じざるを得ません。
「下鈎遺跡」ホームページでも書きましたが、滋賀県として下鈎遺跡の発掘を担当された滋賀県文化財保護協会の辻川哲朗さんは、びわ湖から川を上ってきた運搬舟は、この辺りで陸路や小型船舶に荷物や人を積換える物流の中継地点として機能していたのではないか、と示唆されています。
この考え方に立ち、その時代の動向、地形を考えると下之郷遺跡が果たしていた物流拠点としての機能を、下鈎遺跡が引き継いでいるのではないかと考えます。 以降、この視点で推論を進めます。

下之郷遺跡が果たしていた機能

ホームページシリーズの「野洲川下流域の弥生遺跡」で書いたように、この地域から活発に人や物が当時の全国に行き交っていました。「弥生時代の弥生商人」と表現しましたが、その母村となるのが下之郷遺跡と考えています。
ニノ畦・横枕遺跡は下之郷遺跡のすぐ近くで、外来系土器が他の遺跡に比べ多量に出ること、とくに瀬戸内系の土器が多く見つかっていることから、下之郷遺跡が果たしていた交易拠点の機能を引き継いでいると考えられます。
下鈎遺跡を見てみると、同様に外来系土器が見つかっており、瀬戸内系の土器も出ています。ここでも、人と物が行き交っていたようです。
では、下之郷遺跡の近くではなく、4kmも離れたところの物流の中継拠点を作ったのでしょう。その時代の動向、地形から考えてみます。

時代の動向

下之郷遺跡の衰退、入れ替わるように現れるニノ畦・横枕遺跡や下鈎遺跡、この時期は、前漢武帝による鉄の解禁に伴い鉄素材・鉄器が日本に流れ込む時代です。 瀬戸内海ルートが活発化し、鉄類が運び込まれました。
鉄は日本の社会構造に影響を与えるとともに、重量物である鉄の流通に伴って、交易ルートも大きな影響を受けたはずです。野洲川下流域の遺跡もまともに影響されたと考えます。
弥生中期中頃までは、びわ湖とそこにそそぐ河川をつないで人や物資を運んでいたのが、中期中ごろから陸路を使った輸送経路が扇状地先端部に発達してくるのです。
水路と陸路の接続点に積換基地として大型の拠点集落が生まれます。
それがちょうど、下之郷遺跡から新しい環濠集落への移り変わりの時期になります。
陸路の発達
陸路の発達(出典:「古代の水路と陸路」辻川哲朗 を一部改変)

扇状地先端に陸路が発達するのは地形に起因するので、次に説明します。

地形の理解

立地については、地形の理解が必要なので、簡単に説明しておきたいと思います。
下之郷遺跡は氾濫原〜扇状地にかけて(氾濫原という見方もある)、新しく生まれた環濠集落はいずれも扇状地先端にありました。これらの集落は同じ線上に並んでおり、新しく発生した陸路の存在を伺わせます。
平野モデル
弥生中期環濠集落の平野モデル

自然堤防帯は小さな河川も多く、自然堤防の微高地があちらこちらにあって、南北方向の陸運はとても困難であったと推測できます。その点、扇状地は比較的フラットで水流も伏流水となって地下を流れているために南北方向の陸運はやりやすかったのでしょう。扇状地に陸路が生まれるのはこのためと言えます。
では、扇状地でも特に先端に陸路が形成されるのはなぜでしょう。
それも地形、具体的には標高差が起因しています。
上の図から遺跡の標高の傾向が分かりますが、具体的には次の図で示します。
古代東山道ルート
湖南地域における湖岸部から扇状地間の断面図
(出典:近江・野洲郡内の古代東山道ルート復元について 辻川哲郎)

びわ湖の湖南地域の湖岸から扇状地までの間の地層断面を見てみると、扇状地先端で急激に標高が高くなっています。自然堤防帯と扇状地の間に段差があるのです。
すなわち、扇状地先端部の川の流れは勾配がきつく、流れも速いということです。
ここを舟で遡上ずるのは困難なので、扇状地先端にぎりぎり近い所が陸路との接続点として相応しい位置だったのです。

まとめ:なぜ下鈎遺跡が中継拠点になったのか?

「下鈎遺跡の」ホームページで地形のことを述べているので、結論だけを書きます。
扇状地先端と言っても一様に高くなっているのではなく、下鈎遺跡のある葉山川周辺は扇状地の形成が弱く周囲とは相対的に低地になっているのです。
例えてみると、大きな段差のある所に設けられたスロープが葉山川流域で、スロープを上がりきった段差の上(扇状地)に造営されたのが下鈎遺跡だったということです。
物流の中継拠点を裏付ける遺物は出土していないのですが、状況証拠から推察できるのは、下之郷遺跡から少々離れているものの、びわ湖からの船が扇状地の上に登るのに都合が良かったのがこの辺りで、陸路〜河川、さらに上流への積換え拠点として用いられたと考えられます。
何故、中期末に多量の土器と炭化物が一斉に廃棄された?
一般の人にとって「土器と炭化物が多量に、一斉に廃棄された」ことは、気にもならないことなのですが、長らく発掘調査してきた調査員にとってはあまり経験したことのない状況なのです。

土器の廃棄状況

下鈎遺跡の集落構成は、下鈎遺跡のホームページを見て頂くとして、祭祀域の区画溝と区画を兼ねる自然流路に実に多量の土器が捨てられていました。
土器の一斉大量投棄 自然流路
 川幅:5m
 深さ:約50cm
 廃棄長さ:30m
区画溝
 深さ:40〜80cm
 廃棄長さ:5〜10m×数か所



土器の一斉大量投棄

特徴的なのは、廃棄土器の量が実に多く、多量の炭化物と焼土が一緒に捨てられていることです。それも弥生中期末〜後期初頭の短い期間の間に行われたようです。
この様子は特定の場所だけではなく、上に示した廃棄場所でほぼ共通しています。
(炭化物がなかったり、焼土が無かったりする箇所もある)
炭化物だけが捨てられている場所も1か所見つかっています。
何があったのでしょうか? 土器の廃棄状況を図に示します。
土器の一斉大量投棄
土器、炭化物、焼土の積層(模式図 田口一宏)

土器の時期
 弥生中期末
 弥生中期末〜後期初頭
炭化物:塊として存在
炭化粒:粒状の細片
 いずれも植物由来
 大きいものは木材だろう
焼土:被熱粘土塊
 焼成は不十分で脆い
 数cmの大きさ
 大物は数10cm程度

・上層:小さな土器破片、粉々になった炭化粒(面をなして積もっている)
・中層:半存の土器、土器形状が判る大きな破片、 大きな炭化物(木材炭化物)
・下層:土器の形が大半残っているもの、全体形を復元できる破片

事象の推定

どのような状況下で上のように多量の土器が破壊される事象が生じたのか?
また、どのように捨てられて上のような積層が生じたのか? 考えてみます。
もし、我々が多量の瀬戸物を壊したとき、どのように後始末をするでしょうか?
大きい破片から集めて捨て、次は中くらいの破片、最後に小さい破片を掃き集めて捨てる作業を進めます。
これと同じような行為が、大掛かりに弥生中期末頃に起きているのです。
違うのは、その時に多量の木材や植物が燃えるという事象を伴っています。焼成不十分な粘土塊が同時に存在しているということは、木材が燃えた時に付随的に土が焼けたのでしょう。
当時、多量の木材を燃やす(燃える)のはどのような時でしょうか。
@土器を焼成するとき(土器の覆い焼、野焼き)
A青銅器を鋳造するとき
B火事で竪穴住居が複数棟燃えるとき
実際に野焼きをしたことがあって、材木やわらを燃やしました。正常に焼き上がると、木材は完全燃焼して灰となり、炭化物として残る量はあまり多くありません。これは青銅器の鋳造でも同じことでしょう。
Aの青銅器の焼成では、土器の破壊を伴わないので除外できそうです。
土器の焼成途中で事故が生じて焼成を止めたら多くの炭化物が出ます。ただ、廃棄されている土器の焼成具合は正常で、ちゃんと焼き上がった製品です。ということは、@の土器の焼成途中で事故が起きたことも考えにくいです。野焼きするとき、土器の量はそれほど多くないので、多量の廃棄も考えにくいです。
残るのはBの複数棟の竪穴住居の火事です。多くの土器が壊れ、建物の木材、屋根のヨシなどが燃え炭化物が出ます。多量の炭化物、多量の炭化粒も説明が付きます。
地面も焼かれて焼土が出ることでしょう。
でも、多くの建物が同時に燃え上がることがあるのでしょうか。
江戸時代には大火が何度かあって、長屋が密集していたため、町中が燃えてしまうことがありました。
弥生時代の竪穴住居は、江戸時代の長屋とは違って適当な間隔で建てられています。
類焼で竪穴住居群が次々に燃えるのも考えにくいです。
考えられるのは、一斉に火事が起きたという状況です。

一斉に生じた火災

弥生中期末、約2000年前に巨大な南海地震が生じて近畿の環濠集落が壊滅したと考えています。
本ホームページシリーズの「野洲川下流域の弥生遺跡/弥生中期を終わらせた巨大地震」をご覧ください。 平成23年に起きた東日本大震災を超える(M9を超す)巨大地震が発生し、びわ湖周辺でも大きな地震が起きていたようです。
服部遺跡の広大な墓域はびわ湖から逆流した激しい水流でえぐり取られて、大きな川が出来ていました。
丁度、この時期に下鈎遺跡で土器、炭化物の大量廃棄が行われていたのです。
当時の人たちが火を使う時間帯に地震が起きて建物が崩壊し、燃え上がったとすると、「一斉に生じた火事」は説明が付きます。
土器の廃棄場所ですが、居住域に近い川や環濠ではなく、祭祀域に捨てられています。わざわざ祭祀域の区画溝や川に捨てているのは「思いもかけない悪霊がもたらした災難」をお祓いする意味でもあったのでしょうか?
後期後半に再び集落が構築されるのは?
弥生中期の集落が廃絶した後、約150年後、弥生時代後期の中頃に、中期集落とは少し離れたところに集落が構築されます。集落の中を大きな川が流れているのは、中期と同じです。
その少し前、何もなかったところに突如伊勢遺跡が建造され始めます。その後しばらくして、下鈎遺跡の建造が始まります。距離的には1.2kmほどのすぐ近くです。 隣接ではなく、拠点集落としては近すぎて、微妙に離れた位置になります。

後期集落    後期集落の時期
弥生時代後期の拠点集落とその時期

下鈎遺跡建造の理由

伊勢遺跡と同じような独立棟持柱建物の祭殿が建てられるので、伊勢遺跡と対となって拠点集落の機能を分担していたと考えられます。このため、伊勢遺跡群あるいは伊勢・下鈎遺跡群と呼ばれています。
伊勢遺跡祭殿
伊勢遺跡 方形区画
下鈎遺跡祭殿
下鈎遺跡 南祭祀域
(CG:小谷正澄、栗東市教育委員会)

集落誕生の時期的な差と言い微妙な距離感と言い、何らかの意味があるように思えます。下鈎遺跡が担う機能の建造物を伊勢遺跡に隣接して建てても支障がなく、むしろ近い方が便利なはずです。
ここからは状況証拠に基づく推定になりますが、下鈎遺跡の位置が重要で、それは弥生中期の下鈎遺跡のところで述べた地形に起因する利点、すなわち、びわ湖水運、河川水運と陸運が交差する中継拠点として適している優位性だと考えます。
伊勢遺跡の建造が始まり次々と新しい祭殿を建設することになり、建設資材の運搬保管管理する場所の必要性が浮かび上がり、少し遅れて下鈎遺跡を建設し始めた、という見方です。これなら、時期のおくれも位置の微妙なずれも説明が付きます。
ただ、残念ながら交易拠点としての遺構・遺物は見つかっていません。

積換え場所はどこ?

下鈎遺跡が水路−陸路の接続点だとしたら、積換え作業や保管などの業務は集落内のどこでやっていたのでしょう?
後期の集落構成
弥生後期の集落構成
下鈎遺跡祭殿
南祭祀域の推定川道

そのような遺構は見つかっていないので、難しい推論になりますが、可能性があるのは、南祭祀域ではないでしょうか。
南祭祀域の河道は2か所でクランク状に曲がっています。河道がこのような曲がり方をするのは不自然です。
上の図のように、発掘されていないところに本流があって、祭祀域へ水流を引き出し、それを再び本流へ戻す流れは考えられないでしょうか? 
弥生後期に水運&交易拠点として繁栄する下長遺跡も水運河川の傍に祭殿が建てられていました。川を行き来する船に威容を示すとともに航海の安全を祈ったと思われます。首長の居館も川から少し離れて建設されていました。倉庫群は川の両側に建っていました。
下鈎遺跡の南祭祀域の祭殿、副屋(居館?)の配置も下長遺跡とよく似ています。倉庫群の遺構は見つかっていないのですが、上右図の本流辺りにあった可能性があります。

まとめ

伊勢遺跡は円周上に等間隔に祭殿が建てられています。全棟が建っているわけではなく、順次建設している途上だったようです。また、祭殿は銅鐸祭祀圏のクニグニが一定の規格に準拠して独自に建てていたという見方もあります。
これらの物資の運搬、人の往来のために、伊勢遺跡から余り離れていない、地形的にも有利な所に建造されたのが下鈎遺跡、というのは飛躍しすぎでしょうか?

"陸路"とはどのルート?

弥生中期の記述のところで、陸運ルートの発達について述べました。この辺りは水運と陸運の接続点であった、と辻川さんが推定されました。さらに突っ込んで陸運ルートとして古代東山道との関係を指摘されています。
東山道は江戸時代に中山道として整備された道の前身で、東山道は中山道とほぼ同じルートとなっています。
では、弥生時代〜古墳時代には扇状地先端のどこを道が通っていたのでしょう? その当時、東山道に先行する道がすでに形作られていたと考えられています。
辻川さんの古代東山道の検討図に、主要な弥生遺跡をプロットしました。古代東山道を挟んでこれらの遺跡が存在していました。
「下鈎遺跡は、水路と陸路の接続点」と書きましたが、その陸路とは、古代東山道(後の中山道)に先行した弥生時代の道と考えられます。
すなわち、出来つつあった陸道を挟んでこれらの遺跡が建設されたのです。

古代中山道
辻川哲郎:近江・野洲郡内の
古代東山道ルート復元について(一部抜粋)
伊勢遺跡との関係は?
実際に弥生中期後葉から後期初頭にかけて生じた大きな社会変化を見てみます。
伊勢遺跡とは1.2kmの近距離で、しかも同じ形式の祭殿を有し、同時期に栄える下鈎遺跡はどのような役割を担っていたのか?
「下鈎遺跡ホームページ」には、次のように書きました。
下鈎遺跡は伊勢遺跡と対としてその役割を果たすために建設され、祭祀空間として機能していたようです。すなわち原倭国(近畿政権)の中核として、伊勢遺跡とともに銅鐸祭祀圏のクニグニを索引していたと考えられます。
青銅器関係の遺物が多く出土しており、青銅製品を作る集落でもあったとも考えられます。
考古学的に推定できるのは、ここまでと思います。
この「下鈎遺跡はミステリー」では、状況証拠から推論をすすめ、前項では、下鈎遺跡は「伊勢遺跡の建設と運営」のため物資・人を中継するための基地であったという見方を述べました。
また、下鈎遺跡では青銅器生産を行っていたことは確からしいので、この点では伊勢遺跡との違いとしてはっきりしています。
では、祭祀についてはどうでしょう。同じような祭殿が複数棟建っており、この時期、他では見られない特殊な建物です。この祭殿で両遺跡が同じような祭祀をしていたのか、あるいは分担して異なる祭祀をしていたのでしょうか? 
遺構や遺物からは読み解けません。

遺構や遺物の比較

先ず、両遺跡の周辺環境の相違点を比べてみました。次の表をご覧ください。
下長遺跡も比較に入れていますが、弥生時代後期から古墳時代早期にびわ湖水運と陸路の接続点として栄える集落で、下鈎遺跡の物流拠点の機能を継いだと考えられる集落です。ここにも独立棟持柱建物が建てられ、伊勢遺跡群として機能していたと考えられています。
伊勢遺跡 下鈎遺跡 下長遺跡
北祭祀域 南祭祀域
祭祀域の規模 直径280m全域約250m離れて2区域
特殊建物 13棟2棟3棟1棟
内 独立棟持柱建物 6棟2棟?2棟1棟
  上記祭殿の心柱 ありなしなし
建物配置 方形+円周の配置南北2区域に不規則単独
祭祀域と川・溝の関係 周囲に区画溝周囲に区画溝・流路中央に大きな川中央に大きな川
 同上内の遺物 なしなし多種・多数多種・多数
 河川祭祀 なしなし川が祭場川が祭場
住居との混在 なしなしなしなし
その他導水施設青銅器生産首長の居館
注:特殊建物:見つかっている棟数で、未知の建物の可能性あり

先ず、目につくのは祭祀域の規模の違いと、下鈎遺跡の祭祀域は2つに分かれていることです。 下長遺跡も含めて、同じような祭殿が建っているものの、伊勢遺跡の祭殿だけに心柱があるのも、重要な違いです。
あと、川や溝と祭祀域の関係にも違いがあります。
伊勢遺跡の周囲の区画溝や川からは不思議なくらいに遺物が出てきません。
下長遺跡は祭祀域の横を大きな川が流れており、水運に利用されていたようです。その川からは数々の多様な遺物・祭祀具が見つかっています。
下鈎遺跡を見てみると、北の祭祀域は発掘範囲が限られているものの、区画溝や溝のような流路に区切られており、そこからはほとんど遺物が出てきません。一方、南の祭祀域はすぐ横を大きな川が流れており、川からは祭祀の用いられたと考えられる多くの遺物が出てきます。

祭祀の性格

前項で考察したように、北の祭祀域の様相は伊勢遺跡に似ており、南の祭祀域の様相は下長遺跡に似ているのです。
世俗から切り離して厳かに執り行う聖なる祭祀と、人々に見せるために盛大に行う祭祀のような感じです。下鈎遺跡の祭祀では、2つのタイプの祭祀が行われていたようです。(下鈎遺跡が物流拠点であったと推定した根拠の一つが、南の祭祀域と下長遺跡との類似性であったのです)
では、北の祭祀域の祭祀と伊勢遺跡との関係はどうなのでしょうか?
同じような聖なる祭祀の様相と言いながら、祭殿の心柱の有無が大きな違いです。 「伊勢遺跡のミステリー」にも書きましたが、心柱には神聖性があります。
両者ともに聖なる祭祀では? と書きましたが、質に違いがあると感じます。
伊勢遺跡は国つくりに関わる、神聖化された銅鐸の祭祀などが考えられ、下鈎遺跡の北の祭祀域ではもっと実務的ではあるがあまりオープンにできない、でも聖なる祭祀、大胆に推測すれば青銅器生産に関わる祭祀が思いつきます。

まとめ

伊勢遺跡はクニに関わる祭祀を行う空間で、下鈎遺跡は物流や青銅器生産を実行する空間で、どちらも祭殿を建造してマツリごとを行っていたと推測します。
下鈎遺跡では、物流に関連する舟の航行安全を願うマツリと青銅器生産の安全・成功を願うマツリの2種類があったのではないでしょうか?
青銅器生産はどこで?
下鈎遺跡からは青銅製品だけではなく、作りかけの未成品、鋳造時に発生する銅カスなどの副次品が見つかっています。鋳型の一部や鋳造時に強い熱を受けて赤色化した中子と思われる土製品なども出土しており、青銅器生産の生産を行っていたことは間違いないでしょう。
出土物の詳細は「下鈎遺跡」のホームページをご覧ください。
これらの遺物は少量で、下鈎遺跡のどこで青銅器の鋳造を行っていたのかを推定できる遺構や遺物は見つかっていません。

遺構の復元

間接的にヒントとなりそうなのが遺構の溝の形状や建物配置などです。
栗東市教育委員会は、北の祭祀域の周辺区画の復元想定を行っています。
大溝と自然流路により2重に区画された区域があり、内側の大溝の部分には出入口が開いています。遺構はさらに北へ広がっている予感をさせますが、この辺りは発掘調査された北西の限界部分で、残念ながら区画の一部しか分かっていません。
このような遺構配置と祭殿が2棟見つかっていることから、特別な区域であることには間違いありません。

古代中山道
北の祭祀域の遺構復元案(栗東市教委)

竪穴建物と思わぬ出土物

南北の祭祀域の周辺では住居となる竪穴建物は見つかっていないのですが、例外がこの区域の大型竪穴建物です。何らかの目的を持った特殊な建物であることには間違いないでしょう。この竪穴建物跡から銅残渣が見つかっています。青銅製品や副次生産物は全て川跡から見つかっていますが唯一つの例外が、この建物跡からの出土です。
これらの状況から、この建物は青銅器の生産工房を想定させるものでしたが、残念ながら確たる遺物は見つかりませんでした。
土器類は見つかっていることから、出入口に面した番小屋の可能性もあります。 もし、番小屋だったとしたら、区画溝の内部は非常に重要な施設があったことを伺わせます。

青銅器生産の可能性

当時の青銅器生産技術は、原材料やその配合、鋳型の作り方や鋳造の仕方など、中国から伝わった最先端の技術です。その技術を持った渡来人や技術を学んだ倭人は、招いた首長から丁重に扱われると同時に、機密保護のために外部との接触も制限されたと考えられます。
上の図の、北の祭祀域の遺構復元案は、青銅器生産の生産域として相応しい構成だと思います。
北の祭祀域の祭祀の様相が「聖なる祭祀」と推察されることもうなずけます。
とは言え、ここが青銅器生産の場であった可能性を示唆するに留めておきます。


文責:田口 一宏 

top