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 下之郷遺跡もミステリー  【投稿No.田口201512】
伊勢遺跡はミステリアスな遺跡でしたが、下之郷遺跡も不思議なことや、「どうしていたのだろう?」と思う疑問が数々あります。
そのような不思議や疑問を整理してみました。
はじめに
「下之郷遺跡」ホームページで書かれているように、他の環濠集落の遺跡に比べて不思議なことがいろいろあります。また、不思議な遺物もいろいろ出ています。これらは下之郷遺跡のミステリーなのです。
 ・一般的な竪穴住居が無く、掘立柱建物や壁立建物ばかり
 ・外周環濠はあったのか?
 ・大型建物が整然と並ぶ計画都市?
 ・この地域に戦はあったのか?
 ・思いがけない遺物
 ・環濠を掘るのにどれだけ労力を必要とした?
これらの不思議を、私見も加えもう少し掘り下げたり、別の切り口で見てみましょう。

一般的な竪穴住居が無く、掘立柱建物や壁立建物ばかり
弥生時代、数棟の竪穴住居が小さな集落を構成し、そのような小さな集落がまたいくつか共同体として稲作をしていたようです。その中にも中核的な集落があり、そこは竪穴住居も多く、掘立柱建物にはお米を蓄え、あるいは集会場として使っていた・・というような生活が想像されています。

いろいろな建物
  弥生時代の建物(左:竪穴住居  中:掘立柱建物  右:壁立ち建物 【守山市誌考古編】

しかし、下之郷遺跡では、竪穴住居は1棟もなく、掘立柱建物か壁立建物しか見つかっていません。環濠内部では、大小27棟の建物跡が見つかっています。全てが同時に存在していたのではないのですが、掘立柱建物か壁立建物ばかりです。同じ場所で何回も建替えている建物もありますが、数字上は1棟としてカウントしています。
壁立建物は朝鮮半島に起源を持ち、国内では西日本の大型拠点集落の特殊な場所に建築されていたようです。下之郷遺跡では、この壁立建物が何棟も見つかっています。
竪穴住居が1棟もなく、珍しい壁立建物が何棟もあるのがミステリーなのです。
竪穴住居がない遺跡はまれに存在します。地下水位が高い場合には、竪穴を掘ると水が湧いてくるので、高床の掘立柱建物を建てざるを得ません。
下之郷遺跡もその可能性が皆無とは言えませんが、隣接する酒寺遺跡やニノ畦・横枕遺跡では竪穴住居が幾つも見つかっており、下之郷遺跡だけにないのは不思議です。
下之郷遺跡の発掘報告書を読んでいると、環濠の発掘状況から判断して、水を湛えていない空濠があったようです。深く掘っても地下水が湧いてこない場所があったことが判ります。一方で、環濠にしがらみ杭を打ち込んで水を堰き止めたり、水中を区切ったりしている個所もあり、ここでは環濠に水を湛えていたことが判ります。
これらのことから、「地下水位が高いので竪穴住居は作れなかった」とは一概に言えません。 それにしても、地下水がどんどん湧いてくる場所では、どのようにして2mもの深い濠を掘ったのか、排水はどうしていたのか、そちらが不思議です。
後述する建物の計画的な配置や区画溝、大きな拠点集落でしか見つからない独立棟持柱付き建物の存在を考え合わせると、環濠内部は特別な目的の場所であったと考えられます。
それで一般庶民の竪穴住居が無かったのではないでしょうか?

外周環濠はあったのか?
下之郷遺跡の環濠イメージ図 下之郷遺跡は東西330m、南北260mの3重〜6重の環濠に囲まれています。その外側にも遺構が広がっており、遺跡の外縁部には何ヶ所かで大きな溝が見つかっています。果たして、この外縁部の溝が集落を取り囲む環濠なのか、どうなのか? 
もし環濠ならば、外周環濠と内周環濠の二重環濠になります。 これが大きなミステリーなのです。
この当時の大規模集落、吉野ヶ里遺跡や池上曽根遺跡では、環濠は二重構造になっています。唐古・鍵遺跡は、二重構造の環濠ではないものの、直径約500mの大環濠があり、直ぐ外側に多重の環濠が設けられています。下之郷遺跡はこれらの遺跡に匹敵する拠点集落なのです。
また、ほぼ同時代の近隣の環濠集落と規模を比較してみます。
野洲川下流域の主要環濠集落
野洲川下流域の主要環濠集落の比較(縮尺は同じ) 【守山市・栗東市発掘報告書を基に作成】

下之郷遺跡の環濠は東西330m、南北260mの規模であるのに対し、ニノ畦・横枕遺跡では東西400m、南北550mの規模、下鈎遺跡では直径約400mの規模の環濠です。
当時の人たちが持っている環濠の大きさのイメージが判って頂けるでしょう。 下之郷遺跡の内部の3重環濠だけでは、規模の大きさのイメージに合わないのです。
下之郷遺跡が内周、外周環濠の二重構造なのか、内周環濠なのか、意見が分かれるところですが、当時の他地域の大規模環濠集落や下之郷遺跡に隣接して作られる環濠集落の規模と構造から考えて、下之郷遺跡は内外二重環濠の集落と考えるのが自然です。もし、外周環濠があっとしたら、外周環濠(東西670m、南北460m)と内周環濠(東西330m、南北260m)の二重構造になります。
3重〜6重の内周環濠内は、出入り口が厳重に防御されており、いかにも物々しい有様です。環濠内部はそれだけ、重要で特殊な場所であったと考えらえます。

大型建物群が整然と並ぶ計画都市?
考古学の世界では約40uより大きい建物を「大型建物」、100u以上を「超大型建物」と呼んでいます。
伊勢遺跡では、大型建物が円形と方形の組合せで整然と並んで建てられており、広く知られるようになってきました。実は、伊勢遺跡にさかのぼること約250年前の下之郷遺跡でも大型建物が何棟も見つかっており、方位を合わせて整然と並んでいました。
見つかっている大型建物は、独立棟持柱付き建物が1棟(建替えられているものは1棟とカウント、以下同じ)、掘立柱建物が6棟、壁立式建物が3棟の計10棟を数えます。

下之郷遺跡の中央部建物
下之郷遺跡の中央部建物 【守山市発掘報告書を基に作成】
独立棟持柱付き建物
独立棟持柱付き建物 【守山市誌考古編】

下之郷遺跡の建物を特徴付けるのは、独立棟持柱付き建物と壁立式建物です。 独立棟持柱付き建物は池上曽根遺跡で超大型のものが見つかっており、下之郷遺跡の建物は、これとほぼ同時期のものです。近江では最も古く、全国的にみても古い建物です。 独立棟持柱付き建物は東南アジア系の建物で、稲作と共に伝わった可能性のある形式です。
後の伊勢遺跡の独立棟持柱付き建物と比べると、大きさはほぼ同じですが、柱はやや細く、柱間隔もやや広く荘厳さの点では劣ります。しかし、伊勢遺跡より約250年も早い時期にこの形式の建物を建てたのは、ここが広い範囲の拠点集落で、祭祀や周辺集落の長が集った所だと考えます。
下之郷遺跡の中央部の建物配列を図に示します。注目すべきは、建物の方位を合わせて建てられていることです。図中、A群の2棟の方向は揃っているが正方位ではありません。地面の切り合いから見て下之郷では古い時期の建物です。
B群の建物は北から10度ほど西に軸を振って方位を揃えています。独立棟持柱付き建物はこのB群に属しており、数回建替えられています(独立棟持柱があるのは内2回)。C群は南北正方位を揃えて建てられています。
B群、C群で共通していることは、建物の周囲に区画溝を伴うことです。建物の方位が揃っていること区画溝を伴うことなど、建物構成に計画性を持った先進的な集落であったようです。
下之郷遺跡の中央部建物CG
環濠内B群建物の復元想像図 (CG作成 田口一宏)

下之郷遺跡の建物を特徴付けるもう一つの建物が壁立式建物です。この形の建物は、朝鮮半島系に起源を持ち、国内では西日本の大型拠点集落の特殊な場所に建築されていました。弥生時代では大変珍しい建物です。炉を中心に4本の主柱が建てられ、外側にやや細めの柱を円形または方形に建て、壁材を垂直に並べた建物です。最大の円形壁立建物は直径10m強で、東出入り口に正面を向いて建てられています。多くの兵士がここで見張り番をしたようです。
この壁立建物が大小混ぜて9棟見つかっています。内2棟は内周環濠の外側です。このように多くの壁立建物があるのは、新しく来た朝鮮系の渡来人が居たのかも知れません。
下之郷遺跡の建物はほとんどが平面調査のため建物構造や時期の詳細は分からず、建物の同時性や時期の区分が付けられません。 建物の方位の変化から判断すると、災害など何らかのきっかけで建物を建て替えているとも考えられます。
下之郷遺跡の時代に大きな地震が2回あったことが判っています。地震で倒壊した建物の建て替えがその契機かも知れません。独立棟持柱付き建物や東出入り口の円形壁立建物は何度も同じ場所で建て替えられており、重要施設として継続的に使われたようです。
多くの大型建物、特殊な建物、方位を合わせた計画配置・・などを考え合わせると、下之郷遺跡は野洲川下流域の拠点集落を超えたもっと広い範囲を統括する集落だったようです。
弥生時代中期、中国の古書によれば100余国が弥生時代後期には30の国に統合されます。下之郷遺跡は、30国に統合される途中の重要拠点だったのかも知れません。

この地域に戦はあったのか?
弥生時代になり水稲耕作が始まり、土地や水をめぐって戦が始まったと言われています。
魏志倭人伝には「倭国大乱」があったと書いてあり、国と国の大きな戦闘があったようです。防御機能を持った環濠集落や小高い山上に作られる高地性集落などは戦に備えた集落と考えられます。
現に北九州や山陰の青谷上寺地遺跡では殺傷人骨が幾つも見つかっており、戦があったことは事実でしょう。弥生時代前期の墓には、人骨と一所に多くの石鏃が見つかる事例があり、瀬戸内海を中心とする西日本一帯に比較的多く見られ、戦争の痕跡と考えられています。
ただ、殺傷人骨について、集落間の争いはあったにしても、国と国の全面戦争だったのかという疑問が出されています。北九州や山陰では水田開発の可耕地が多くなく、水田拡大が原因となって、各地で土地と水に絡む戦いが頻発したものと考えられています。人骨と一所に多くの石鏃が見つかる事例も、必ずしも戦闘で亡くなったのではなく、「戦士」として武器と共に埋葬されたという見方があります。
日本を広く見て見ると、國どうしの大きな戦争があったような考古学的証拠がなく、魏志倭人伝の「倭国大乱」に懐疑的な見方も広がっています。
地域紛争についても、水田の可耕面積が広く豊かな地では争いは生じなかった、逆に水田適地が少なく稲作に頼らなかった地域でも争いはなかった、丁度その中間のような地域で耕作地や水をめぐる争いがあった、という考え方が広まっています。
では、環濠集落は何のために?
環濠集落は稲作と共に中国から朝鮮半島を通して北九州に伝わりました。日本中に広がっていく中で、防御を主目的とした環濠から、濠を掘る共同作業をとおして結束を強めることに目的が変質した、という見方があります。もちろん、東海の朝日遺跡のように環濠に逆木を並べた防御主体と考えられる遺跡もあります。
下之郷遺跡の環濠はどうなのでしょう?
内外二重構造の環濠で内周環濠の出入り口は厳重な防御がされており、いかにも他のクニとの戦いに備えた集落構造のように見えます。
戦争の痕跡が少なく、環濠は共同体の維持結束のための作業という見方が広がるなか、下之郷遺跡の環濠や周辺から、戦の痕跡と思われる遺構・遺物が出てきました。
詳しくは、下之郷遺跡のホームページの「下之郷遺跡/戦と武器」をご覧ください。
番小屋と出土した武器
集落の出入り口の番小屋と周辺から出てきた武器 【守山市誌考古編】

見つかっている東西の出入り口には、柵を巡らし、入ったところには番小屋が建っています。
図は西側の出入り口ですが、その付近からは、打製や磨製の石鏃、焼け焦げた弓、石剣、折れた銅剣など、戦いに使われたと思われる武器がたくさん見つかっており、激しい戦いが連想されます。
ここでは省略しますが、東の出入り口の付近からも、多くの石鏃、環石、防御用の盾などが見つかっています。東西の出入り口の付近から多くの武器が見つかっているのです。
このことをどう解釈するか? 
「戦争はなかった」論が広がる中、考古学者の佐原真さんは「下之郷遺跡に戦の痕跡があった」とおっしゃったそうです。
状況証拠から考えて、下之郷遺跡をめぐって戦いがあったようです。概して平穏な環境の時代に、下之郷遺跡の中心部では何を護っていたのか? 新たな疑問です。

思いがけない遺物
下之郷遺跡の環濠や井戸からは思いがけない遺物が出ています。
まだ黄色い籾や果肉の付いたウリ、ゲンゴロウフナの鰓のかたまりなど、ここでしか出土していない遺物があります。これらは、「下之郷遺跡」ホームページに詳しく書かれているのでそちらを見て下さい。
そのほかで気になる遺物について補足しておきたいと思います。

【ココヤシ祭器】

建物配列 一つは、ココヤシ容器です。なぜか、南方のココヤシが下之郷から見つかっています。
容器は長さ10.3cm、高さ10cmの楕円形で、直径約4cmの穴を開けて口にし、雌しべの跡(子房痕)を目に見立て、鼻になる小さな穴で鼻の形を作り、大きく口を開けた顔を表現しています。口の両脇には「ひげ」となる線が彫られ、鼻とひげは水銀朱で赤く着色されていました。
ココヤシの実の殻を加工して人の顔に見立てた容器は、奈良・正倉院の宝物「椰子実」と似た造形ですが、下之郷のものは、それより1000年さかのぼっています。 
下之郷遺跡で見つかったココヤシは、単なる容器ではなく、祭器と思われます。当然、南方系の祭器でしょう。では誰が持ってきたのでしょう?
祭器を使うのは一般人ではなく、権力者やシャーマンです。南方からそのような人が来て、ここに定住していたのかもしれません。あるいは、こちらから出かけた弥生人が持ち帰ったのかもしれません。
当時の近江は銅鐸祭祀を行なっており、他国の祭器を持ち帰って使うことは考えにくいです。 環状石斧や環石など東アジアの武器が見つかっていることからして、南方の権力者が祭器と共に来ていたと考えます。

多孔土器

多孔土器 環濠から小さな穴がたくさん開いた土器が出土しています。大きさは現在のガラスコップくらいの大きさです。下部は細くなっていて、底にまで穴が開いています。
上部には小穴が2個、対面して開いており、紐でも通すような感じです。この構造からは、濾し器のような用途が考えられます。
このような多孔土器はあまり見かけないものですが全国で28遺跡、総数36個しか見つかっていません(1999年時点)。出土するのは、時代的には弥生時代中期中ごろ以降から古墳時代初期の遺跡で、奈良を中心とする近畿に分布しています。出土するのは拠点集落が多いようです。
用途は諸説あり、甑(そう:蒸し器)や飯蛸壷とか言われていますが、ろ過機という説が有力です。ろ過機にしてもサイズが小さく、吊り下げて使うようなので、薬のろ過だろうという人もいます。
奈良からの出土が多く、奈良とのつながりが伺われます。 。

銅剣

中細型銅剣 環濠の底から折れた銅剣が出てきました。中細型銅剣という種類の剣です。
中細型銅剣はほとんどが出雲で出土し、九州・四国などで少し出土している青銅器で、近江から出てくることが不思議なのです。下之郷遺跡の銅剣は、銅剣分布の最東端となります。
銅剣は、弥生時代の初期に大陸より伝来といわれています。伝来時の銅剣は、細身の鋭い形状で実用武器でした。祭器として用いられるようになるに従って幅が広くなり、形だけの剣となっていきます。
中細型銅剣は実用の武器と祭祀用の祭器の過渡期の青銅器で祭器用は刃が研ぎ澄まされておらず、丸くなります。
ところが、下之郷遺跡の銅剣は刃を研いで鋭利に仕上げられており、実戦用の武器として使えます。
この銅剣がどこから伝わってきたものか?
下之郷遺跡の前半ごろには、九州北部、中国地方と四国の西部で中細型銅剣が使われます。下之郷遺跡の終わり頃には、九州では銅剣は使われなくなり、出雲で中細型銅剣が、また瀬戸内地方で平形銅剣が使われるようになります。いずれにしろ近江とは離れた地域の祭器で、下之郷遺跡で見つかるのは不思議なことなのです。
358本もの中細型銅剣(出雲型銅剣)が見つかった荒神谷遺跡の銅剣は、品質が劣ると言われています。出土した銅剣の写真を見ていると、腐食しボロボロのものがあり、実用剣とも祭器とも考えにくいものです。
出土した銅剣は、どうやら出雲型銅剣ではなく、下之郷遺跡の初期に九州か中国・四国系の銅剣が伝わったもののようです。

環濠を掘るのにどれだけ労力を必要とした?
下之郷遺跡の環濠は、幅が5m〜8m、深さも1.5m〜2.5mもあります。それが3重に、場所によっては6重になって集落を廻っています。これだけの環濠を掘るのにどれだけの労力を要したのでしょう。
弥生時代中期には鉄が大陸から伝わっていましたが、農具はまだまだ木製でした。濠も木製農具をつかって掘っていたと思われます。
下之郷遺跡の3重環濠について計算してみます。
この部分の環濠総長は約2500mで、幅を平均6m、深さを平均2mの三角断面とします。掘る土砂の体積は15,000m3となります。1日にどれだけの土を掘り上げられるか? 吉野ヶ里遺跡でも同じような計算がされており、1日一人で0.5m3としています。これにならって計算すると、総工数は30,000人・日となり、100人がかりで掘れば300日、約1年かかる計算です。
環濠は内周から次々と掘られたことが判っており、先ず、最内周、次いで2周目というように掘っていました。
下之郷の集落に何人の人が居たのかわかりませんが、周辺の集落からも総動員して共同作業を行なっていたのでしょう。
1日の作業量を0.5m3としたことで、この量が多いのか少ないのか? 考えてみます。
作業量は、土を掘って運んで土塁にするか、どこかに捨てるか、そこまで含めたものとしています。
皆さんは現代の鉄製の鍬や鋤を思い浮かべるでしょうが、先ほど述べたように木製農具です。刃先は今の鉄製のように薄くはありません。そんな農具で掘るので効率は現在想像するほどではありません。
鍬 弥生時代の鍬には泥除けの付いたものがありました。
鉄の鍬とは違い、刃先をあまり薄くすると割れやすいのです。いきおい、刃先はある程度厚くする必要がありました。そんな鍬でぬかるみを掘ると泥が跳ねかえってきて人の方に飛んできます。それで鉄の鍬(実際には刃先だけに鉄を装着した)が使えるようになるまでは、土地の状況(水分)によって泥除けを付けて泥水が人の方へ飛散を防いだようです。鉄の鍬が普及してくると泥除けは無くなります。
家庭菜園で畑を耕していて感じるのは、乾燥した土の掘起こしは大変ですが、雨の後は土が柔らかくなり作業がはかどります。
弥生時代、環濠を掘るときには水をまいて土を柔らかくして作業していたに違いありません。
このようなことを考えると、土を掘る1日の作業量が0.5m3というのは頷けませんか。

文責:田口 一宏 

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